夏日タマタマ成ル

久しぶりに一首作りました。
詩を横書きで書くのは好きではないのですが
ネット上ということもあり、横書きで書きました。


   夏日偶成
 牽牛花綻海邊樓 牽牛花綻ぶ海邊の樓
 闊歩炎天逐白鷗 炎天に闊歩して白鷗を逐ふ
 一陣雷霆驅暑去 一陣雷霆 暑を驅って去り
 風師舞處氣如秋 風師舞ふ處 氣 秋の如し

この詩は七言絶句で、下平声十一尤(かひょうしょうじゅういちゆう)の漢字を使って押韻されている、平起式(ひょうきしき)の詩です。

平仄のうち、平声を○、仄声を●、押韻を◎で表わすと
下記のようになります。

     夏日偶成
 起句 ○○○●●○◎
 承句 ●●○○●●◎
 転句 ●●○○○●●
 結句 ○○●●●○◎

よく、高校の授業で習う漢詩は絶句でも律詩でも
「押韻(◎の部分)されていれば漢詩の法則にあてはまる」などと
教えられているようですが、実にとんでもないことだと思います(国文出身の教員に漢文が読めるなどという話は、寡聞にして、聞いたことがない(「寡聞にして、聞いたことがない」とは少々妙な言い方のような気が…)ので仕方のないことかもしれませんが。。。
七言絶句の場合、平仄を自由に決められるのは
平起式(今回作った詩)の場合、起承転結各句のなかで、
一文字目・三文字目の奇数文字と、承句の五文字目だけだったりします。
そして、その中でも、「四字目の孤平を禁ず」という決まりごとがあるので、
三文字目を仄声(●)にしたら、五文字目は必ず平声(○)にしなければなりません。

その他にも、イロイロな決まりごとがあるのですが、
それはまた今度ゆっくりとw(←ホントか?)
2006.09.09

疑問

【北京の話】

軍隊で、あるとき、いっせいに兵隊が女房がこわいといいだした。
どいつもこいつも口をそろえて、こわい、こわいという。
女房がこわいようでは戦争なんかできないぞと、隊長は説教をするが、
兵隊は口ぐちに、戦争なんかヘッチャラです。今からでも行きます。だけど女房は戦争よりこわいですと、いいたてる。

そこで兵隊の勇気をふるいにかけてみようと思って隊長は命令をだす。
女房のこわい兵隊は右へ出ろ。こわくないのは左へ出ろ。

するとたちまち100人のうち99人の兵隊が右へ出た。左へ出たのは1人きりだった。

隊長はその男のところへかけつけて、感動して、お前だけがほんとの英雄だと叫んで、肩をたたいた。

するとその男は恐縮し、低い低い声ではずかしそうに、
いえ、ナニ、私、女房にいつも、みんなのあとについていってはいけないと、
いわれつけているもんですからと、答えた。

これは開高健が中国に行ったときに郭沫若(カク・マツジャク)から聞いた話らしい。
モトネタは中国の笑い話にある。
そこでは軍隊ではなく、地獄で閻魔大王が…となっているわけだが…

そんなことはどうでもよくて!
疑問に思うのは
「郭沫若も女房がこわかったのだろうか・・・。
それとも女房をほかのものに喩えていたのだろうか…」
ということです。
2006.05.18

ホワイトな人

メーテル・レジェンド

松本零士ネタをもう一つ。

最近知ったことなのですが、
銀河鉄道999に登場するメーテルの着ている黒い服。
アレは「母親の形見の喪服」だったのですね。。。

幼い時(?)のメーテルはドレス姿だったり、白いコート姿だったりしますw

ソースはこちら→http://broadband.biglobe.ne.jp/program/index_maetel_legend.html

2006.09.17

長い付き合い

多万里ワンタンメン

この「ワンタンメン」は昔ながらの素朴なお味なのですが
大好きです。
かれこれ20年くらいのお付き合いになる店のものですが
近くを通りかかるとつい、店に飛び込んで注文してしまいますw

オススメの食し方は、
このお店お手製のラー油をちょこっと垂らすことです♪


しかし最近、食べ物ネタが多いなぁ。。。
食べ物に飢えているのかしら??
2006.08.22

愛宕の松

純米大吟醸愛宕の松

土井晩翠もこよなく愛し、飲み続けたというお酒をいただきました。

   館山の頂き開く酒むしろ
      愛宕の松の薫いみじく

早速飲んでみると、あっさりとした、飲みやすいお酒でした♪

土井晩翠といえば、「荒城の月」や「星落秋風五丈原」の人というイメージが
個人的には強いのですが…^^;
2006.07.30


きつね使い

Firefox

サテ、巷のネットニュースで流されている
「IE7.comにアクセスをすると、Firefoxのロゴで迎えられる」
という件であるが
何もドメインは「IE7.com」だけではないようダ。

http://ie.com/
http://ie1.com/
http://ie2.com/
http://ie3.com/
http://ie4.com/
http://ie5.com/
http://ie6.com/
http://ie7.com/
http://ie8.com/
http://ie9.com/
http://ie10.com/

これらのドメイン名、Microsoftとは関係のないものばかりであるようだ。
しかも「Internet Explorer7(IE7)」の正式リリースをひかえている時期に
「IE7.com」をライバルに取られてしまうとは、流石はゲイツの会社。。。

ちなみに日本語用FirefoxのDL先はこちら→http://www.mozilla-japan.org/
2006.09.07

夕景

夕景06.05.11

今日は、雨上がりの夕日がとてもきれいですた。
写真ではその美しさが表現できていませんが(-_-;)

絵の具箱 自然にまさる 色はなし
                     Myrtha詠めり

2006.05.11

カバ

ムーミン

ムーミンって、見ていて癒されるのかもしれないですね。
あまりの平和さ・のどかさ故についていけなくなる時もあるけれど。。。

http://broadband.biglobe.ne.jp/sitemap/index_moomin.html
2006.07.22

はじめての漢詩創作

   はじめての漢詩創作

書名 はじめての漢詩創作 / 鷲野正明. - 初版
出版地 東京都: 出版社 白帝社,出版年 2005年9月
ページ 276P ;大きさ21cm
ISBN 4-89174-751-X : ¥1800

t1.ハジメテ ノ カンシ サホウ a1.ワシノ,マサアキ
s1.漢詩 分類番号919.07

--目次--
はじめに

第一部 作詩入門
 第一章 詩形について
  (一)絶句
  (ニ)律詩
 第二章 平仄について
 第三章 平仄を合わせる
 第四章 韻について
  (一)韻目
  (ニ)韻字
 第五章 押韻について
 第六章 「平起こり」と「仄起こり」
  (一)平起こり
  (ニ)仄起こり
 第七章 平仄表・詩語集による作詩
 第八章 何でもうたおう―和臭に気をつけて推敲を

第二部 「ことば」について考える
 第一章 「モノ」と「こころ」と「ことば」
 第二章 漢字の多義と音
  (一)声調がかわることによって意味がかわる
  (ニ)「音」がかわることによって意味がかわる
  (三)意味はかわらず二つ以上の声調がある
 第三章 漢字の結びつき方
  (一)主語+述語の関係
  (ニ)述語+目的語・補語の関係
  (三)修飾語+被修飾語の関係
  (四)並列の関係
  (五)選択の関係
  (六)時間的継続の関係
  (七)従属の関係
  (八)上下同義の関係
  (九)その他の関係
 第四章 語を省略した「ことば」
 第五章 義を転用した「ことば」
 第六章 詩における「ことば」の多義
  (一)音の連想によって別の意味を暗示する
  (ニ)漢字の多義によって重層的な意味合いをもたせる
  (三)ある情感や雰囲気をただよわす
  (四)特定のモノやおもいを象徴する

第三部 一句の組み立て、四句(一首)の構成
 第一章 漢文の句形
  (一)漢文の基本句形
  (ニ)基本句形と詩句例
 第二章 漢詩の特殊句法
  (一)語順がかわる
  (ニ)語の省略
 第三章 四句(一首)の構成
  (一)前半二句景物・後半二句情思(前景後情)
  (ニ)前半二句情思・後半二句景物(前情後景)
  (三)四句すべて景物(四景)
  (四)四句すべて情思(四情)
 第四章 対句、句中対

おわりに

附録
 (一)主な韻字
 (ニ)両韻字
 (三)平仄両韻字
 (四)平仄両用字
 (五)作詩のための参考書
 (六)引用詩一覧
 (七)作詩に関する重要語句
  *「平起式」「仄起式」表
2006.09.16

A Million Ways

OK GOが〈You Tube〉内でダンス・コンテストを開始し、課題曲PVのダウンロード数が1,000万件を記録

シカゴ発のパワー・ポップ・バンド=オーケー・ゴーのセカンド・アルバム『Oh No』からのシングル“A Million Ways”のプロモ・クリップが世界中で大反響を呼んでいる。このクリップは、メンバー4人が自宅の庭でライン・ダンスと70年代のディスコを合体させたようなカントリー・ダンスで踊り舞う、制作費20ドルという低コストで制作された作品。その奇妙かつ愉快な振り付けが話題となり、オフィシャル・サイトと現在動画共有サイト〈YouTube〉の合計ダウンロード数が1,000万件を突破していまだ上昇している。さらに現在、彼らはYouTubeにてこの “A Million Ways”のダンス・コンテストを実施。何十万人という人がバンドの踊りをコピーし、自ら撮影したビデオをアップしている。こちらのコンテスト、当初は7 月末の締め切りだったのが8月末に延長されたため、まだ応募のチャンスもあり。優勝者には仰天のサプライズが用意されているので、いますぐ振り付けを覚えて応募しましょう。詳細は以下のリンク先からご覧下さい。

なお、最新シングル“Here It Goes Again”のプロモ・クリップは、メンバーがルーム・ランナーの上をトリッキーな動きで踊っているというもの。そちらも大好評で、2日で200万件のダウンロード数を記録している。YouTubeを使ってファンとコミュニケーションを図るというアイデアと手法で、デジタル・プロモーション界に旋風を巻き起こす彼らから目が離せません!
                      (bounce.com - 08月24日 19:00)

http://www.youtube.com/watch?v=6dJEa44Wgtk
http://www.okgo.net/news.aspx


今を去ること○十年前の古きよき学園時代のダンスの授業を
思い出しました。
3拍子に慣れると、2拍子や4拍子のステップを踏むのが難しく感じたりしたものですw
2006.08.26

連射

10秒間に100回というのはかなり難しいようだ。。。
ちなみに、62回がが限界のようです。


http://tok3000.nce.buttobi.net/



腱鞘炎に注意でよろしくですw
2006.04.11

小心者

夜に下記のURLの文章を読んで後ろを振り向けなくなるほどの恐怖心にかられる自分は相当な小心者のようです。

と、同時に「人が良い」だけでは世の中を生きていくのは難しく
「親が子を『教育する』とはどういうことか」を考えざるを得ないことでもあるように感じます。

「よい学校に行き、良い企業に就職する」ということを教育と考えている親御さんは多いようですが、「子供にとっての本当の教育」とはなんなのでしょうね?

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=26592&media_id=2

夢の力

夢の力

  書  名: 夢の力
  副  題: エム ナマエの華麗度スコープ 万華鏡
  版  次: 初版第1刷
  著  者: エム ナマエ
  出版者: ?愛育社
  出版地: 東京
  出版年: 2002.12.16
  形  態: 26cm,P.120
  ISBN  : 4-7500-0144-9
  価  格: ¥1800

 全盲の画家・エム ナマエ氏の画集。酩酊にとっての癒し。
 表紙を見て「なんだか線から色がはみ出た、子供が描くようなイラストだ」と思われる方もいらっしゃることかと。でもね、少しばかり想像してみてくださいな。目をつぶって絵を描く自分を…

 ナマエ氏はボールペンで紙に力強く線を描くとき、紙についた傷跡をを指先でなぞりつつ絵を描く。そして夫人でありパートナーでもあるコボちゃんにパステルの色をいい、持たせてもらい、着色したい場所まで導いてもらってひとつの絵を完成させているのです。もちろん、紙についた傷跡をを指先でなぞれば絵が描けるわけではないでしょうから、ナマエ氏の見えない目には自分が描いている絵がちゃんと見えているのでしょうね?

 思うに、ナマエ氏はヴェートーヴェンと同じなのではないだろうか。もし、あなたの家の近くで氏の個展が開かれているなら、ぜひ一度見てみてくださいな。画集とは一味ちがった、色鮮やかな夢の世界に導かれることかと   
2004.10.31

杜牧

杜牧 と・ぼく Du Mu
字 牧之
生没年 803~852
出身地 京兆府万年の人

 江南の美しい自然や華やかな町,酒,歌,遊びにあけくれ、風流才子の名をほしいままにした晩唐第一の詩人。

 杜牧、字は牧之は、唐の貞元19年(803)に杜従郁の次男として京兆府(現・陝西省西安)に生まれた。杜牧の祖父は、徳宗・順宗・憲宗と三代にわたって宰相を務め、『通典』を著した杜佑(735~812)、遠祖には西晋の杜預(どよ・222~285)がおり、由緒ある名門であった。
 元和7年(812)10歳の時、宰相を務めた祖父・杜佑が没した。さらに18歳にして父・従郁を失うと、杜牧の一家はたちまち困窮し、住居は借財のために人手にわたり、8年間に10回も転居したという。

 元和15年(820)、憲宗が宦官によって弑され、穆宗の長慶年間(821~824)をむかえ、16歳の敬宗が即位した。敬宗の宝暦元年(825)、23歳の杜牧は「阿房宮賦」を作った。
 翌年12月、敬宗が宦官によって弑され、あとを継いで即位した文宗の太和2年(828)正月、26歳の杜牧は洛陽で科挙の進士科に受験し、進士第5位に及第する。そして同年、吏部の関試を突破し、さらに太和2年(828)閏3月、長安で賢良方正・能直言極諫科を受けて及第し、門下省の弘文館校書郎を授けられ、左武衛兵曹参軍に試用された。

 同年10月、江西観察使の沈伝師(しんでんし)の幕下に招かれて洪州(江西省南昌)に赴き、その後数年を沈伝師とともに洪州・宣州の地に江西団練府巡官として努めた。
 太和7年(833)、沈伝師の命によって揚州の淮南節度使・牛僧儒を訪ねた。太和7年4月沈伝師が吏部侍郎として中央にもどると、杜牧は牛僧儒の幕下で淮南節度掌書記となり、以後2年間を揚州で過ごした。
 この地で杜牧は後年、彼自身が「揚州の夢」といって懐かしむ風流三昧の日々を過ごすことになる。

 太和9年(835)、監察御史として長安に戻り、ついで監察御史・東都分司として洛陽に赴く。開成2年(837)、将来を嘱望していた4歳年下の弟・杜(とぎ)の眼病が悪化し、ついに失明した。当時35歳の杜牧は以後15年にわたって、杜一家の世話をすることとなる。崔鄲の幕僚になって再び宣州に赴いたのも、百日休暇の期限をこえたために監察御史・東都分司を解任されたためだともいわれる。

 開成4年(839)初春、上京して左補闕・史館修撰となり、膳部員外郎・史館修撰などを経た後、会昌2年正月、黄州刺史(現湖北省黄岡市・刺史は州知事)となった。以後、2年おきに池州(現安徽省貴池市)、睦州(現浙江省建徳市の東)の刺史に転任した。このころ、朝廷では牛李の党争が激化していた。

 大中2年(848)晩秋、睦州を離れて長安に戻り、司勲員外郎・史館修撰となり、そののち吏部員外郎を経て、大中4年(850)、みずから願い出て湖州刺史に転出した。これは眼病を患い揚州で療養中の弟や未亡人となった妹の一家などの世話をするために収入の多い地方官を求めたことによるようだ。湖州刺史は顔真卿が80年前に就いたポストである。当時、杜牧は消渇(しょうかつ・糖尿病)を患い、できるだけ飲酒を慎み、養生の茶を飲んでいたという。

 大中5年(851)、考功郎中・知制誥となって帰京する。この年、牛僧儒や最愛の弟・杜があいついで没した。翌年の大中6年、杜牧は中書舎人(詔勅の起草)に任命された。死を予知したのかみずから「自撰墓誌銘」を書き、詩文の整理をした。12月ごろ長安の安仁坊の自宅で病没した。

 杜牧の詩は彼の死後、姉の嫁いだ裴儔の子・裴延翰が、『沮川集』20巻(前の4巻は詩、後の16巻は文)を編纂し、大中9年(855)ころ、後序を書き終えて完成させた。これが今日伝存する杜牧集の祖本になる。その後、唐末ごろに編者未詳の『沮川外集』1巻(詩のみ)が編纂され、続いて北宋の熙寧6年(1073)の自序を有する田概編『沮川別集』1巻(詩のみ)が編纂された。これが『杜牧集』の根幹を成す三種の伝である。

 同姓の杜甫を老杜と呼び、杜牧を小杜と呼ぶこともある。因みにある調べによると、日本人の好む漢詩の第2位に杜牧の「江南春」が入り、第12位に「山行」が入っているという。第1位は、言わずもがな、杜甫の「春望」である。

2004.12.25

李賀

李賀  り・が Li He
字    長吉
生没年 791~817
出身地 昌谷の人

 中唐の詩人。楚辞の流れを汲む怪奇美に満ちた幻想的な作品で知られ、その象徴的な表現は晩唐およびそれ以降の詩人たちに大きな影響を与えた。

 李賀は古来「鬼才」の名をもって呼ばれてきた。李白が天才、白居易が人才と呼ばれるのに対して李賀をこの名をもって呼ぶのは、北宋の随筆集『南部新書』に始まるとされる。中国における鬼(き)とはわが国におけるオニとは異なり、亡霊や物の怪を意味するが、李賀がこの名で呼ばれるのは、「蘇小小歌」など亡霊や物の怪をうたった詩人であるとされることによる。

 李賀が生まれたのは唐の徳宗の定元7年(791)、盛唐の大詩人・杜甫の没後21年後、韓愈24歳、白居易20歳の時である。「金銅仙人辞漢歌」の序に「唐の諸王孫李長吉」といっているように唐王室の出であるが、李賀の家は昌谷の地に若干の土地を所有する小地主にすぎなかったようだ。

 李賀の伝記の最も早いものの中に、李賀の家と親しい関係にあったらしい晩唐の詩人・李商隠の書いた「李長吉小伝」というものがある。それによると、李賀は「細痩通眉にして、指爪(しそう)を長くし」ていたという。「通眉」とは2本の眉が中ほどでつながっていたことをいう。また、「能く苦吟疾書」し、若くして詩名を知られ、当時の文壇における大家であった韓愈にその才能を認められていたともいう。

 元和5年(810)、20歳の時、李賀は河南府の推薦を得て科挙の試験のために長安に出て来ている。だが、そこで李賀を待っていたものは思いがけない妨害だった。李賀の父の名を晋粛といい、「晋」は「進」と同音だから進士科の試験を受けることは親の名を犯すことになるから試験を受けるべきでないという声が起こったのだ。韓愈は李賀のために「諱(いみな・死者の本名)の弁」という論文を書いて弁護している。しかしこの弁護は不成功に終わり、科挙の試験から締め出された李賀は失望のうちに故郷にもどっている。

 故郷にもどった李賀は毎朝、小奚奴(しょうけいど)を従えて驢馬に乗り、古びた錦の嚢を背負い、詩句が浮かぶとそれを紙片に書き留めてその嚢の中に投げ込み、一日山野をさまよっては日が暮れると家に帰り、それらの紙片を取り出して、足らぬところを補って詩を完成させたという。長篇の五言古詩「昌谷詩」はこのころの作品とされる。

 元和6年(811)頃、李賀はふたたび長安に出て来て奉礼郎の官についている。この官は従九品上という卑官で、その職掌とするところは朝会や祭礼に関する仕事である。元和8年春、李賀は病気を理由に官を辞し、昌谷にもどるもその年の冬の始めには洛陽の皇甫を尋ねている。ついでふたたび上京して長安で年を越し、翌年は友人の張徹をたよって山西に赴き、1~2年の滞在の後にまた昌谷にもどり、元和12年(817)、故郷の昌谷で27年の生涯を終えている。

 失意の情を裏面にひめ屈折した表現の詩句はきわめて難解でだが、きらびやかな色彩感に富む詩句に盛られた冷ややかな悲哀感と憂憤の情は、李賀詩を読む人々を魅了せずにはいられない。「雁門太守行」「神絃曲」 「李憑箜篌引」などの楽府体の詩に彼の特色がよく示されている。

 李賀の詩で今日に伝わるものは本集219首、外集22首の全部で241首であるとされているが、外集22首は偽作という説もある。

 魯迅や毛沢東は李賀の愛好家であったという。唯美的・耽美的ともいえる李賀の詩が革命家に愛されたのは何故だろうか。
 そういえば以前、岳堂先生に「若い人は李賀を読んじゃダメ」と言われたことがありましたわなぁ    .
2004.10.31

陶淵明

陶潜 とう・せん Tao Qian
字    淵明
号    五柳先生
生没年 365~427
出身地 潯陽柴桑の人

 六朝時代の酒を愛した田園詩人・隠逸詩人として唐以前の詩人の中で最も日本人に親しまれている。

 陶淵明の人生哲学は「五柳先生伝」に書かれており、また、後世の『宋書』隠逸伝や『晋書』隠逸伝・『南史』隠逸伝も「五柳先生伝」を引用しつつその人となりを伝えているものの、伝記には名字などの不明な点が多い。名・字・小字を表にしてみると以下のようになる。

小字出典
淵明
『宋書』『南史』。蕭統は或説
淵明元亮
蕭統。『宋書』は或説
元亮
『晋書』
元亮深明
『南史』の或説
潜のち淵明淵明
のちに
元亮

葉夢徳
淵明、
一名潜
元亮
晁公武
淵明、
入宋後潜
元亮
呉仁傑・張
淵明(義煕中)

潜(元嘉中)
元亮
淵明

熊人
淵明元亮梁啓
元梁淵明


 また、生年も曖昧で今日に至るまでさまざまな説が出されているが、通説では晋の哀帝の興寧3年(365)に生まれ、南朝・宋の文帝の元嘉4年(427)に63歳で卒したとしている。

 サテ、陶淵明の曽祖父は東晋時代に蘇峻の乱を平定した功で長沙郡公に封ぜられた陶侃(とうかん)であるが、陶侃は一説に湖南武陵の渓族であるともいわれる。祖父を陶茂というが史書に父についての記載はなく、淵明の幼少時にはすでに家運は傾いていた。

 晋の太元18年(393)、29歳で出仕し、江州の祭酒となるも、「小日にして」辞めてしまった。ついで36歳以前に江陵を拠点に一大勢力を築きあげていた桓玄の幕下の入ったが、これも母の喪に服すために辞した。やがて桓玄がクーデターを起こし敗死すると、こんどは劉裕の下で軍職についた(404)が、すぐに後悔し、隠棲の決意をかためる。しかしすぐには実行せず、翌年、あらためて建威将軍劉敬宣の参軍となり、劉敬宣が辞任した後、陶淵明も辞職したと思われる。

 義煕(ぎき)元年(405)年秋、仕途における最後の官職である彭沢(ほうたく)の令(長官)となった。隠棲後の生活を考えて着任したようだが、もともと不本意であったため、義妹が亡くなったのを機に願い出て退職し、郷里の農村に帰った。一説には、勤め先に視察官が訪れることになり、下吏から衣冠束帯して出迎えよと言われ、「吾豈(あに)能く五斗米の為に腰を折りて郷里の小児に向かわんや」といって即日辞職して郷里に帰ったというが、「帰去来兮辞」には触れられていないのでさだかではない。

 しかし帰田したものの、周囲には語らえる友もなく、濁酒によって無聊を慰める日々であった(「僮僕」がいた事実からすれば帰田直後は年中田畑で働く必要もなかったようダ)。

 帰田して3年、住居が火事で焼け落ち、一家はしばらく門前に船をもやい仮住まいしたあと、南村に移り住んだ。秋に躬耕の伴侶であった従弟敬遠が亡くなったこともあり、淵明自身、生計を支えるため前にもまして力耕せねばならなかったが、転居を機に参軍・主簿・県令などの役人、潯陽に隠棲していた文人たちと交際を求めるようになる。

 義煕14年(418)12月、劉裕が晋(東晋)の安帝を幽閉した後、絞め殺して恭帝を立て、2年後、恭帝に「禅譲」を迫って帝位につき、宋王朝(劉宋)を開いた。 時代が晋から宋へと移り変わる中、この頃から淵明は病床に伏すことが多くなり、暮らしは困窮の度を加えていく。

 晩年は、病苦(マラリア)と生活苦に見舞われ、作品にもその日の食べ物にもこと欠く窮状が述べられている。周囲の友人が一人また一人とかれのもとを離れていくなかで、景平元年(423)、顔延之が始安郡太守となって潯陽に立ち寄った時には、毎日淵明のところへ来て飲み、心ゆくまで酔っ払った。立ち去る間際、顔延之は淵明に2万銭を渡したが、淵明はそれをそっくり居酒屋に預けて、随時その中から酒代を差し引いてもらうことにしたという。
 宋の文帝の元嘉4年(427)11月病没し、顔延之が誄を書き、靖節と諡(おくりな)した。

 陶淵明の作品は、詩124篇、辞賦・散文12篇が伝わっている。詩の形式は四言詩と五言詩とに分けられ、内容的には詠懐詩と田園詩、哲理詩に分けられるのが一般的である。詩には「飲酒二十首」 「雑詩十三首」などがあり、辞賦・散文には「帰去来兮辞」 「桃花源記」 「五柳先生伝」などがある。

 華やかな貴族文化の中にあって、ひとり陶淵明の詩は、その人生哲学と相俟って、実に素朴で、味わい深い。しかし、政治への参加を大前提とし、詩文の華麗さを追求する当時にあってはそれほど高くは評価されなかった。同時代人の顔延之にしても蕭統(『文選』の編者)にしても、節を守って隠棲した陶淵明の生き方に共鳴はしても、それほど高い評価は与えておらず、彼の詩が本格的に認識・評価され始めるのは盛唐の王維・孟浩然からである。

 しかし、「隠者の詩がなぜ後世にまで残ったのか」というナゾは残る。
パトロンでもいたのだろうか    .
2004.10.31

白居易

白居易 はく・きょい Po Ju-yi(Bei Ju-yi)
字    楽天
号    香山居士
      酔吟先生
生没年 772~846
出身地 太原の人

 中唐の代表的詩人で元和体と称せらる中国詩を形成した。日本の文学にはかり知れない影響を与えた詩人でもある。

 白居易は字の楽天でよく知られている。唐の第8代皇帝・代宗の大暦7年正月20日に父は白季庚、母は陳氏の子としてとして生まれた。この時、兄の幼文がおり、後に弟の行簡が生まれている。また祖父の名を白鍠という。
 白居易は自らを春秋戦国時代の楚の白公勝、秦の白起の子孫と称していたが、はっきりとしたことはわかっていない。しかし六朝期に華北にいた一家の家であることは疑いがなく、一説にこのころ移住した西域人の後裔であるともいわれる。

 徳宗の貞元16年(800)、白居易は科挙の進士科に及第し、貞元18年には試判抜萃科(しはんばっすいか)にも及第している。この時、同じく及第している鮮卑拓跋氏出身の元微之とは終生の交わりをつづけることとなった。36歳にして翰林学士を授けられたが、すでに長恨歌(ちょうごんか)の作者としての名声は世に知れわたっていたらしい。

 翌年、諫官に任じられると散文の上言のほか風諭の意のある詩を次々と公にした。元和6年(811)、母を失い、喪に服して退職した後、元和9年喪があけて閑職に任じられたがまた諫書を奉ると越権をとがめられて江州司馬に左遷された。

 江州司馬としての任地で作った琵琶行(琵琶引)も代表作で、白居易の文学史上の地位は定まった(「李娃伝」の作者は白居易の弟・白行簡、「鶯鶯伝」の作者は元微之である)。
 また、白居易が江州司馬に左遷され、盧山の香爐峰の麓に草堂をつくったのは、元和12年(817)のことである。香爐峰下に山居を卜(ぼく)し、草堂ができあがった時、白居易は喜んでその壁にいくつかの詩を書きつけた。

遺愛寺の鐘は枕を欹(かたむ)けて聴き
香爐峰の雪は簾を撥(は)ねて看る

その中でもこの一句は、もっとも日本人になじみの深いもののひとつではなかろうか。『枕草子』に、中宮が「香爐峰の雪は?」と問いかけたのに対し、清少納言がすかさず簾をまきあげて人々を驚かせたという話がのっている。この話は、清少納言の才媛ぶりをあらわしていると同時に、平安時代の教養人にとって白居易の詩は必読書であったことをあらわしている。彼の詩集『白氏文集』は平安時代の日本で『文選』とならんで読まれ、李白や杜甫よりもよく読まれた。

 元和13年(818)、ようやく官界の風向きもかわり、忠州刺史となり任満ちて長安に帰ると白居易は自ら杭州・蘇州の刺史を願い出てその地で僧や道士と交際した。

 文宗の太和3年(829)、58歳にして太子賓客の官職に就くと同時に洛陽駐在を許され、のち河南尹に任ぜられるが、俗務を放擲して香山居士と号して(同9年)、白氏長慶集の増補を行なった。太和5年、元微之の死んだあとは劉禹錫(りゅううしゃく)を唱和の相手とし、同8年、劉白唱和集(五巻)を編した。

 71歳となった武宗の会昌2年(843)には刑部尚書として退職し、半俸を恩給として悠々自適の生活に入り、翌会昌6年8月に没して11月洛陽の南の龍門に葬られた。

 白居易の詩文集を『白氏文集』という。これは前後集からなり、前集が「白氏長慶集」で後集が「白氏文集」、これをまとめて『白氏文集』とよぶが、わが国では「文集」とよべば白氏文集をさしたことさえあった。
 前集である白氏長慶集は、白居易の依頼を受けた親友の元微之がその意を体して穆宗の長慶4年(824)に編纂したもので、詩を「諷諭」 「閑適」 「感傷」 「律詩」の4つに分類し、その後に雑文を収めており50巻からなる。
 後集はすべて20巻、長慶集以後の作品を白居易自身が自らの手で編纂したもので、詩を律詩と格詩(格詩…楽府・雑体・歌行などをのぞく詩形の整頓された五言・七言の古調詩をいう)のふたつに分けられており、武宗の会昌5年(845)夏、白居易74歳の時に完結した。
 しかし、前後集あわせて75巻あった白居易の詩集もその後4巻が散逸してしまい、現存するものは71巻である。

 余談だが、あじさいを漢字で書くと「紫陽花」である。これは白居易が杭州刺史時代に西湖の西にある招賢寺であじさいを見たが、誰に訊いてもこの花の名前を知らない。そこで私が名付け親になりましょうと「紫陽花」と名付けたのだ。『白氏文集』に紫陽花と題する七言絶句がある。

何年植向仙壇上  何れの年にか仙壇の上に植ゑたる
早晩移栽到梵家  早晩(いつ)か移し栽ゑて梵家に到れる
雖在人間人不識  人間(じんかん)に在りと雖も人識らず
與君名作紫陽花  君が與(ため)に名づけて紫陽花と作す

2004.06.03

確信

しがき社長はゼッタイに「黒髪長髪フェチ」だと思います。

                          没錯!(=まちがいない!)
2006.05.24

DIVERGENCE

三岔口1  三岔口2

見てきました。
ディバージェンス(原題:三岔口)!
10年前に失踪してしまった恋人を忘れられずに苦しみ続ける刑事と
限りなくクロに近い被疑者たちを次々と無罪にしていく冷静沈着なエリート弁護士と
闇の世界に生きながらも自由な心を失わない謎の殺し屋のお話。

ネタバレになるのでこれ以上はいいませんが、いろいろな意味で
せつなくなりました。
でも、刑事さんは最後には救われたのでしょうね…

http://www.cinemart.co.jp/
http://www.divergence.jp/


近日中にまた見に行こうかな♪



ディバージェンス【divergence】
:(n)分岐,発散,逸脱の意
2006.04.18

画廊

知人の参加する絵画展を見に行ってきました。
数年に一度、毎回この画廊で開かれるのですが
美しいものを見ると心が癒されます。






私はこの人によって美術に興味を持ち、他者によって興味を失っていった。

Google教

Google教という新興宗教ができたらしい。

「Google先生Google先生教えて下さいな♪」を意味するらしい
「ググる」という言葉も定着してきているようなので
そのうちに信者も増えてゆくだろう(ホントか?)

だが、個人情報をも検索可能になってしまうことには抵抗、というよりも嫌悪感を感じないでもない。
でも知りたいことは検索できないとイヤ(どっちやねん!)
そのうち私のあんなコトやこんなコトも暴露されてしまうのか~みたいな~(それはこわい)

Googlism

とりあえずお札を貼ってありがたがってみることにしよう。
嗚呼ありがたやありがたや!

http://www.thechurchofgoogle.org/

http://labs.cybozu.co.jp/blog/akky/archives/2006/10/googlism.html


日曜の夜

百花園紫花  百花園蘭  百花園ピンク花
日曜の夜は心穏やかに過ごしたいものです。
明日への鋭気を養うためにも・・・
花は見ていて癒されます。
なぜかしら・・・?
花が花として精いっぱい生きているから、なのかしら?

■Canon
 http://www.youtube.com/watch?v=uPIZbcZo8mM
■G線上のアリア
 http://stage6.divx.com/members/146191/videos/1019979
■Waltz
 http://www.youtube.com/watch?v=mGWAzfGBbXI
■Swan Lake
 http://www.youtube.com/watch?v=cRYgZfTa5N8
■Swan Lake
 http://www.youtube.com/watch?v=9f_PrUAIugM

李商隠

李商隠 り・しょういん Li Shang-yin
字    義山 
号    玉谿生(ぎょくけいせい)
生没年 812頃~858頃
出身地 懐州河内の人

 晩唐の詩人。古今に冠絶する恋愛詩の名作を数多く残すも、詩の難解さにおいては李賀に劣らない。駢文家としても有名。

 宋の楊億(978~1020)の雑記『談苑』に、李商隠は文章を作る時に「多くの書冊を簡(えら)び閲(けみ)し、左右に鱗次して、獺祭魚(だっさいぎょ)と号し」たという一文がある。魚を捕らえたカワウソがそれを食べる前に岸上に羅列する(『礼記』月令篇)様子に喩えるこの逸話は、彼の詩の性質と創作方法を象徴している。

 時に自らを書痴とも称する李商隠の詩の分かりにくさは、まず典故の多さがあげられる。元来、伝統重視の精神に育まれた典故の技術は、権威ある基礎的教養書である四書五経や『荘子』『史記』『漢書』などに含まれる語彙や人物事跡にその範囲は限定されていた。ところが彼の詩は稗史小説類にのみ語り伝えられる事柄を堂々と比喩に借り、事柄ばかりかその発想をも大胆に詩に取り入れている。

 また、彼の把えにくさは、ひとつの規定で彼をしばることのできない点にもある。彼の言わんとする志は、過去と現在、架空と現実、その他さまざまの異質なものが畳みかけるように同次元に羅列され、夥しい典故に隠蔽される故に卒読しては意味を了解しがたい。たとえば即興の詠物詩などにおいても題に与えられている花鳥の姿が、詩の表面のどこにも現れないということがしばしばおきている。

 そして最大の理由は、李商隠のおかれていた立場にあるだろう。読書人=政治家であった当時、李商隠も官途についた。進士に及第していたにもかかわらず、官界において一生不遇だったのは、「牛李の党争」とよばれる進士及第者の牛僧儒派と貴族派の李徳裕派による政争の激しさにある。

 幼くして父を失った李商隠は初め、牛党の大物・令狐楚の知遇をうけ、駢儷文に手を染めた。進士に及第後まもなく令狐楚が死ぬと、官につけなかった彼は李党の幹部・王茂元に認められるままに庇護を求め、才能あるが故に認められて娘婿となり官についた。王茂元の死後、令狐楚の子令狐綯に憎まれて進退に窮し、李徳裕派の鄭亞の掌書記となるも、宣宗の世に鄭亞が左遷にあうと李商隠は帰京し、やがて武寧軍節度使盧弘正の判官として徐州へ赴く。盧弘正の死後、再び京に帰って令狐綯に懇願し、名ばかりの太学博士の官をえた。同年、東川節度使柳仲郢の書記として東川の幕府に赴く。この間に彼は妻王氏を失っている。この頃から李商隠は身辺の風景や日常の瑣事に深く注意を配り始めるようになる。そして大中年間(847~859)のある年に失職して故里への旅の途次、または帰りついて間もなく没した。

 北宋の真宗の時に宰相の楊億が李商隠を酷愛し、銭惟演ら17人と李商隠の詩を模擬して唱酬し、「西崑酬唱集」という題にまとめ西崑体と号するにあったて、彼の詩は一世を風靡した。しかし、彼の文学が正当な理解をうるのは真宗に仕え、新法による改革者であり唐宋八家の一人である王安石(1021~1086)によって、李商隠の詩が杜甫に踵を接する深い人間洞察を含み、華麗な表現の奥に誠実さが常に底流することを指摘され、以後、多くの詩の評論家がこの見解に同意してからのことだった。李商隠は杜牧とともに晩唐の李杜とも呼ばれる。

 李商隠の残した文集は「樊南甲集」20巻、「乙集」20巻、「玉谿生詩」3巻、それに賦1巻と文1巻があるが文集は宋代に一度散逸してしまったため、現在見られる文集は明以降に拾集編纂されたのものである。

 正岡子規が「獺祭書屋主人」と号したのは李商隠を意識してのことだろうか?