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アナトリア旅游16・後日談篇

数日後、ポエ爺からの手紙が届いた。
日付を見ると8月11日とあり、どうやら旅行中に書かれたものらしい。
特に長々とした文章は書かれておらず、漢詩が一首だけ書かれていた。


       客 中 即 事              旅先での即興

   千 山 萬 水 白 雲 程    千山 万水 白雲の程(てい=みち)

   客 旅 應 牽 遊 子 情    客旅 応(まさ)に牽(ひ)くべし 遊子(ゆうし)の情

   探 興 東 西 南 北 路    興を探る 東西南北の路(みち)

   年 年 連 轡 共 君 行    年年 轡(くつわ)を連ねて君と共に行かん


詩の大意は、「良い旅行だったね。また一緒に旅に出よう!」ということになろうか。
こちらこそ、ポエ爺あってこその、良い旅でした(-人-)
Teşekkür ederim!(テッシェキュル・エデリム,ありがとうの意)


※トルコ旅行ひとくちメモ
海外からパソコンを使ってメール送信などの文字入力をするときに問題になるのが日本語の文字変換だ。適当に日本語サイトにアクセスしてコピー&ペーストによって入力するという方法もあるが、下記のサイトを使ってみるという方法もある。
Ajax IME: Web-based Japanese Input Method
Ajax を使った手書き文字認識
Sumibi.org ローマ字を日本語に変換できる無料サイト
また、可能ならばパソコンに日本語入力可能な方法を教えるという方法ある。それはwindowsXPの場合、以下の設定で出来るハズだ。
・「コントロールパネル」→「地域と言語のオプション」→「詳細設定」→「使うUnicode対応でないプログラムの言語バージョンに一致する言語云々」→「日本語に指定」→(「10001(MAC - 日本語)」「20290(IBM EBCDIC - 日本語 カタカナ拡張)」 にチェック)→「適用」→「OK」
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アナトリア旅游15・エピローグ篇

15日目。
HOTEL AKÇINAREmek Hotelに比べると幾分新しいホテルなのか部屋もきれいで、嬉しいことに小さいながらもシャワールームとトイレが分かれていた。それともEmek Hotelはバックパッカー向けのホテルというだけのことだろうか?しかしながら朝食が「エクメック、チーズ、ゆで玉子、オリーブ、サラダ、チャイ」というコンチネンタル・スタイルであることはどこのホテルもそう大差ない。トルコの一般家庭でも毎朝このような朝食を食べているのか、それとも「伝統的な朝食」があるのかはナゾだ。

am10:27
ホテルのチェックアウトをし、けれども相変わらず荷物はフロントに預け、ついでに先日依頼した空港行きのシャトルバスの手配を確認して街へ出る。
夕方までにホテルに戻らなければ帰国できなくなってしまうのだ。今日は慌ただしい一日になりそうだ。

イスタンブール市内のバス停を横目に過ぎり、銀行へ米ドルを両替しに行く。
イスタンブール市内を走るバスのバス停はオトガルのようなバスステーションとは異なり、日本のバス停とはあまり変わらない。とはいっても日本ではこのようにバスが密集したバス停というのは駅前にある程度だが、ここはトルコだ。目の前に電車の姿はないw

イスタンブール市内


ひとまず買い物のメッカ(?)カパル・チャルシュことグランド・バザールへ   .

グランド・バザール


旅行者が「グランド・バザール」と呼ぶカパル・チャルシュ(Kapalı Çarşı)は、メフメット2世の時にイチ・ベデステン(İç Bedesten)とサンダル・ベズステン(Sandal Bedesten)の2つの市場が作られ、その周辺に商館が作られていったのが始まりだ。時代と共に規模が大きくなり、複雑な大バザールに変貌したのだとか。古くは奴隷の取引も行われていたらしいが、現在は専ら土産物屋群となっている。広さとしては東京ドーム3分の2ほどで、金・宝石、絨毯、衣類・革製品、アンティーク、雑貨などと大まかなブロックに分かれているらしいが、あまりにも広すぎて、そして迷路のように入り組んでいるのでさっぱり見当がつかない。しかも観光客が大挙して押し寄せてくるので落ち着いて商品を見るのが難しい・・・グランド・バザールでの買い物を諦めたMyrthaは早々にムスル・チャルシュに向かうのであった・・・

途中でみかけた日本ではもう見られない懐かしき看板。

Vodafone


エジプシャン・バザールことムスル・チャルシュ(Mısır Çarşısı)は、カシム・アーという人物が作り始めたが途中で中断されたものの、イエニ・ジャミィを作ったムスタファ・アーが1660年に完成させ、1943年の大改造で現在のような屋根付きのバザールになったという。元来はイエニ・ジャミィを維持するために建設されたのだとか。イエニ・ジャミィ建設に取り組んだ人々を対象にした露店がきっかけで出来たのだろうか?ここではエジプトのカイロから輸入された香辛料やハーブを主に扱っていたためにヨーロッパ人から「スパイス・バザール」とも呼ばれた。

ムスル・チャルシュ内には香辛料の他にチーズやナッツ、ドライフルーツ、菓子類、チャイなどの食品や小物などの生活感あふれる物がそろっている。グランド・バザールが観光地化された市場なら、こちらのエジプシャン・バザールは地元の人も訪れる市場といえる。きょろきょろと辺りを見てはふらりと店に入り、これはという物があればすぐさま購入する。とはいっても、荷物のカサと相談して買わねばならないのでそうそう簡単ではない。が、ここまで長期に亘る休暇をくれた上司を始めとする職場の人に感謝と留守中御迷惑おかけしましたというお詫びの気持ちを兼ねて何か買っていかねば・・・と考えてしまうのは恐らく私が日本人だからだろう。そんなわけでエジプシャン・バザール内では写真どころではなかったのだ。
「今度トルコに行くことがあったらば、ゆっくりバザール内の写真を撮ろう!」と思うMyrthaであった。

とりあえず購入した物は、ロクム(トルコ版ゆべしのような菓子)、ナザール・ボンジュウ(トルコのお守りの目玉)、エルマ・チャイ(トルコ版アップル・ティー)などなどなど。。。おっと、旅の記念にトルコ石のネックレスも購入しましたゾ。路上に落ちている石を拾っては、「はい、トルコ石♪」などと言ってくるポエ爺は無視して宝石店の店主と電卓を叩き合って価格交渉をするのだ。その間にチャイが振る舞われるのはいうまでもない。

一通り買い物をすませてすぐ隣にあるイエニ・ジャミィでひと休みする。

イエニ・ジャミィ


イエニ・ジャミィ(Yeni Camii)は新市街からバスなどによってガラタ橋を渡ってきた観光客が真っ先に目にする、人目に付きやすいが素通りされるモスクなのではあるまいか?
イエニとはトルコ語で「新しい」を意味する言葉で、イエニ・ジャミィとは「新しいモスク」ということになる。何でも大規模な古典的モスクとしてはこれが最も新しいのだとか。別名を「ヴァーリデ・モスク」という。「ヴァーリデ(Valide)」とは「皇帝の母」を意味する言葉であり、このモスクはその名の通りメフメット3世の母サフィエ・ハトゥンの発願により造営が開始されたという。サフィエ・ハトゥンはスレイマン大帝の孫のムラト3世の妃にあたり、夫の死後に造営を開始されたので皇帝の母になるというわけだ。

「なるほどね」などと納得していたら、完成までにもう少し複雑な事情があったらしい。
何でもサフィエの子のメフメット3世が1603年に他界し、孫のアフメット1世の時代になるとサフィエはハーレムを追われてしまい、工事が中断してしまったのだ。それから半世紀以上たった1660年にイブラヒム1世の妃で時の皇帝メフメット4世の母であったトゥルハンがモスク造営事業の継続を思い立ったという。工事を継続した人も皇帝の母であったので「帝母のモスク」というのだとか。落成は1661年から1663年にかけてといわれているが、現在は中庭や付属の建造物は失われてしまっているので観光コースからは外されてしまっているようだ。ここは地元の人々のためのモスクといえるだろう。

シャドルワンの近くにいたムスリムの女性。

イエニ・ジャミィ


宗教に寛容なトルコはムスリムの女性に「チャドル」と呼ばれる女性が外出の時に身に着けてきた体全体を覆う伝統的な黒系の衣装を強制しないが、イスタンブールの街中を歩いているとちらほらと見かけた。ポエ爺の話によると、数年前までは田舎で見かけることはあっても、イスタンブールのような都市部で見かけることはなかったという。政権分離を徹底させているトルコも年々イスラム色が強くなっているようだと憂慮するポエ爺であった。この国はアタテュルクの方針によって政教分離を徹底させてきたが、時の政権が宗教色を強めるとアタテュルクの後継者を自負する軍部が動き出すというのだ。他国のことはその国の人々が決めればよいとはいえ、お互いのためにも平和であってほしいと思うのであった。

手頃なファストフード屋で遅い昼食兼早めの夕食を済ませてホテルへ戻る。
購入した土産物をリュックサックにしまい、ホテル側の手配してくれたPick Up式のシャトルバスに乗り、小一時間ほど揺られているとアタテュルク国際空港に着いた。出国は驚くほどスムーズに、そしてあくまでもファジーに済み、21:45に無事KE956便はソウルに向かって離陸した。

さようなら、トルコ。
窓の外へ目をやると、天上の星と地上の星が飛行機を包み込むようにして瞬いていた。
星々に包まれながら、飛行機は静かに黒海へ進路を取っていった   .


※トルコ旅行ひとくちメモ
飛行機はこの後、ひたすら進路を東に取って進んでいった。夜食としてビビンバやわかめスープ、キュウリのキムチが出された後、食事が終わると機内は消灯時間となり、ひたすら眠り続ける状態に突入した。時折、窓の外を眺めると荒涼とした土地に太陽がさんさんと照りつけている。
am5:30。
朝食としてお粥やキムチが出され、7:36(現地時間13:36)に無事にソウルへ着いた。少々待ち時間が長いような気もするが、成田行きの便に乗って無事に帰国できた。飛行情報を告げる地図にあまりにも小さすぎるが故に記入する必要のない(と思われる)竹島のことを「ドクト」と書いてある辺りは「流石は韓国」といったところだろうか。帰国するのに2日を要したが、機内で眠っていたせいか、復路も往路と共に時差ぼけはせずにすんだ。

アナトリア旅游14・イスタンブール再び篇(下)

14日目。
朝早く   とはいってもビジネスマンはとっくに働きに出ている時間だが   折角なので他のホテルにも泊まってみよう!ということで、Emek Hotelを出てHOTEL AKÇINARへ引っ越しをしてからガラタ橋界隈名物のサバサンドを食べに行く。

サバサンドは三枚おろしにしたサバに塩胡椒をふって鉄板焼きにしたものをレタスやトマト、玉ねぎと一緒にエキメックに挟み、レモン汁をかけたシンプルなサンドイッチだ。以前は釣ったサバを船上で調理・販売していたが、衛生面などの理由により規制されてしまい、現在は船上販売は観光用としてわずかに残っているのみで、店舗で売られていることが多いようだ。
「三枚おろしにした魚といえば網焼き」と考えてしまうのが日本人だが、こうして塩胡椒を振って鉄板焼きにしたサバもなかなか美味しい。味はサバというよりもアジに近いような気もするが、そんなことは気にもかけずにこの美味なるサンドイッチをほおばっていたら、写真を取り忘れてしまった_| ̄|○

そのような訳で、どのような食べ物下記になる方は、現地に飛ぶか、ガイドブックを見に書店へ行くか、Magic氏のトルコ旅行記7-1 サバサンドを読むかをして下さい。
Magic氏は2009年の冬にトルコへ行かれたようで、ご自身のBlog「三度目の世界征服」でトルコ旅行についてを書かれているのだ。Myrthaの旅行期間とは対照的な季節のトルコを写真で見られるのでなかなか興味深いものがありますゾ。
因みにサバサンドは飲み物付きで3YTLナリ。

腹も満ち満ちたところでガラタ橋を渡って新市街へ   .
新市街のシシャネからレトロな路面電車に乗り、終点のタクシム広場(Taksim Meydanı)へ向かう。

タムシム広場


タクシムとはアラビア語で「分割・分配」を意味し、オスマン帝国時代に都市の各方面に水を送る分水設備があったことに由来するそうな。現在は広場中央に1928年に完成した共和国記念碑が建ち、トルコの近代化を推進した共和国初代大統領ケマル・アタチュルクの銅像がある。ここから南西方向に向かって歩くとイスティクラル通り(İstiklâl Caddesi)がある。

イスティクラル通り


イスティクラル通りはイスタンブールきっての繁華街で、ブランド・ショップやブティック、カフェ、各国領事館などが建ち並び、歩行者天国になっている通りを先ほど乗っていた路面電車が通り過ぎていく。買い物好きな女性はもちろんのこと、ウィンドウ・ショッピングだけでも楽しい一角だ。買い物に無関心なポエ爺は・・・あえて語るまいw

イスティクラル通りを南下してアタテュルク橋を渡り、ヴァレンス水道橋(Valens Kemeri/Bozdoğan Kemeri)へ   .

ヴァレンス水道橋


ヴァレンス水道橋はビザンティン皇帝・コンスタンティヌス1世の時に工事を着工し、ヴァレンス帝の378年に完成したといわれている。イスタンブールはローマのように7つの丘をもつといわれるほど起伏に富んだ街なので、その丘と丘あいだを架け渡して水を通すためにこの二層アーチの水道橋が作られたという。よく壊されずに残ったものだと思ってしまうが、実はオスマン・トルコ時代にも使われていたらしい。使える物は使ってしまえという発想なのか、歴代スルタンに狂信的な人物がいなかっただけなのか、いずれにせよ、このある種の大らかさが六百余年の長期に亘る広範囲な帝国統治を可能にしたのだろう。

街中の一角で見かけたブランコ遊びをする子供。

イスタンブール内の公園


幼子がきゃっきゃとはしゃぐほほえましい様子、ではなくて、ブランコ本体を見てみると微妙に形が日本とは異なっている。まずは座るところは板状ではなく箱状になっており、次に足の部分には転落防止ガードが取り付けられている。つまり、これは箱の中に座れる大きさの人しか使えないということになる。日本の青春ドラマのようにイイトシした人がブランコをこぐ、または座る、ということが出来ない仕組みになっているのだ。トルコではブランコに座るのは幼児だけなのか?

世界遺産に登録されているイスタンブール歴史地区は4つの保護地域からなる。トプカプ宮殿やアヤソフィア、ブルー・モスクのある「遺跡公園地区(スルタンアフメト地区)」、ゼイレク・ジャミィを中心とした「ゼイレク・モスク地区」、テオドシウスの城壁やカールエ博物館(コーラ修道院)のある「大城壁地区」、そしてスレイマニエ・ジャミィのある「スレイマニエ・モスク地区」だ。

スレイマニエ・ジャミィ


スレイマニエ・ジャミィ(Süleymaniye Camii)はオスマンから数えて第十代目皇帝であったスレイマン1世(在位1520~1566)の時に作られた大モスクだ。
オスマン・トルコ帝國六百余年の歴史の中では36人の皇帝が在位したが、スレイマン1世ほど長く在位した皇帝はおらず、この皇帝の統治した46年が帝國の黄金時代であった。トルコ人はスレイマン1世のことを「カヌーニ(立法者)」と異名で呼ぶことが多く、西洋では「Süleyman the Magnificent」と呼ぶそうな。日本ではスレイマン大帝と呼ばれている皇帝だ。

このオスマン帝国の黄金時代を統治したスレイマン大帝が在位30年にあたる1550年から建設が始まり、7年の歳月をかけて建設されたモスクは、本堂が69メートル×63メートルあり、中央の高さ53メートルのところに直径27.25メートルで32の窓を持つドームがあり、さらに東西にそれぞれ半ドームが作られている。メッカの方角を示すミフラープに取りつけられている美しいステンドグラスは創建当時のものであるという。
また、モスクには6つの学校や研究所、病院、救貧院、無料給食接待所、浴場、キャラバン・サライ(隊商宿)、商店などの付属施設がある。ミナレットは4基あり、その内の2つは2つの廻廊をもち、残りの2つは廻廊が三層になっており、この4基のミナレットはスレイマン大帝がイスタンブールに居を定めたファティフ以来4番目の皇帝であることを示している。廻廊は合わせて10になるが、これはスレイマン大帝がオスマン・トルコ帝國の第10代皇帝であることのシンボルであるという。

スレイマニエ・ジャミィの一角。
礼拝の時間を告げるアザーンを流す塔・ミナレットと廻廊の一部だが、中央の身を清めるための泉水であるシャドルワンの横にいる人と比較してみるとその大きさがわかる。

スレイマニエ・ジャミィ


スレイマニエ・ジャミィは現在も礼拝所として使われており、礼拝時間中は異教徒は中へ入ることが出来ないが、それ以外の時間は一般公開されている。この辺りの大らかさはトルコならでは、といったところだろうか。
しばしの時間を待ち、中へ   .

スレイマニエ・ジャミィ


礼拝が終わってイスラム教徒のいなくなった内部は静かではあるが、どこか温かみのある雰囲気であった。三々五々に解散した人々の中には礼拝場の片隅に集まって世間話に花を咲かせる人や、熱心に祈りを捧げ続ける人もいる。モスクは礼拝所としての機能以外に人々の語らいの場としての機能も果たしているようだ。

スレイマニエ・ジャミィの境内の一角にはこの大モスクを作ったミマル・シナンの墓がある。

ミマル・シナン墓


100歳近くまで生きたシナンはスレイマン大帝の他にセリム2世やムラト3世にも仕え、オスマン帝国最高の建築家として知られている。スレイマニエ・ジャミィの他に、シェザーデ・メフメット・ジャミィ(通称シェザーデ・ジャミィ)や神学校、隊商宿、橋梁、墓廟など500にも亘る建築物を手がけたという。
現在残されているシナンの墓は後世の改修があまりにも大きく、些か残念なことであるが原形をとどめていないらしい。

旧市街のギュルハネからガラタ橋を渡って新市街のタクシム広場へ行き、イスティクラル通りを南下してアタテュルク橋を渡って再び旧市街に入り、アタテュルク通りにかかるヴァレンス水道橋を眺めてローマ帝国に思いを馳せ、スレイマニエ・ジャミィを堪能してスレイマン大帝の威光を偲ぶ。一日中歩き通しで心地よい疲労を感じたMyrthaは街中のレストランへ入った。

ウズカラ・キョフテ


レストランに入って好物になったウズカラ・キョフテ(Izgara köfte)を頼み、「そういえばまだ一度も飲んだことがなかったナ」とトルコの蒸留酒・ラク(RAKI)も注文すると、大いに驚かれた。この店でラクを頼んだ女性はMyrthaが初めてなのだろうか   


※トルコ旅行ひとくちメモ
イスタンブールの観光範囲となるのは主に3つに地域に分けられるだろう。まず、北の黒海から南下してマルマラ海へ通じているボスポラス海峡によって、東のアジア側と西のヨーロッパ側に分かれる。そして西のヨーロッパ側はボスポラス海峡の出口近くで西北に向かって切れ込む金角湾で分断され、南が旧市街、北が新市街となっている。旧市街は観光の中心で、新市街は各国の領事館や高級ホテルが集まっている。アジア側は古い歴史を持つものの、新興住宅街を中心としているためか、ヨーロッパ側と比べると見所は少ない。

アナトリア旅游13・イスタンブール再び篇(上)

自動車のエンジン音が低くあたりに響き渡り、目を覚ました。
窓の外を見ると、暗闇の中に観光バスや自家用車、トラックなど、大小さまざまな大きさの自動車が密集している。
何かあったのだろうか?

13日目。am2:55
異様とも受け止められる中で、熟睡しているポエ爺を揺さぶり起こして聞いてみた。
寝ぼけ眼のポエ爺はあたりを見回し、「ダーダネルス海峡を渡るための埠頭では?フェリーに乗り込んだら船内を歩けるから行ってみれば?対岸まで40分くらいだったと思うよ」と、必要情報を言い残してまた夢の中へ遊びに行ってしまった。

ヨーロッパ大陸からアジア大陸へ行くためにボスフォラス海峡を渡ったのが11日前の話だ。あの時は不覚にもバスが走り出した途端に眠りに落ちてしまい、ボスフォラス海峡を渡る瞬間を目にすることがかなわなかったが、今回はヨーロッパ大陸へ戻るためにダーダネルス海峡を渡る瞬間に立ち会えるのだ。暗闇にもかかわらず、わくわく感が増す。

対岸から渡ってきたフェリーに乗っている自動車が全て出払ってからバスごと中に入り   .
(かなり大きなフェリーだぞw)

ダーダネルス海峡


真っ暗なマルマラ海を静かに進んでいく。
この間、観光客は物珍しそうに、そして記念にとばかりにフェリーの上の階に設けられたベンチや甲板に出ては頻りに写真を撮ったり、興奮したりしている。海へ目をやると隣にも対岸を目指すフェリーの姿がある。一度に何隻の船が行き来しているのだろうか?

ダーダネルス海峡


対岸の灯りが見えてきたところで、置いてかれてはかなわないと慌ててバスに戻る。一足先にバスに戻ったポエ爺はすでにすやすやと寝入っている。いつとはなしに、再び夢の中の住人となっていった。

突然、肩を揺すられて飛び起きた。添乗員が降りろと合図をしたので、慌ててバスを飛び降りた。
am5:20
どうやらイスタンブールのオトガルに着いたらしい。
周りを見ると地方から上京したばかりのバスが客を下ろしている。
とりあえず旧市街方面へ戻らなければならないのだが、11日前に来たオトガルとは何か様子が違う。どこだ?ここは?

あたりを歩いている小父さんに旧市街へ行くバスを訊ねると、「どこから来た?乗ってきたバスの乗車券はないのか?」というようなことを聞かれ、とりあえず先ほど下ろされたMETRの乗車券の切れ端を見せると、「それならばあそこから乗れるよ」と教えてくれた。
イスタンブール行きのMETROのバスはミニバスでアクサライまで送ってくれるというのだ。高額なのはアクサライまでの費用込みだからなのか、大手バス会社だからなのか。。。
近くにあったこの建物の地図を見ると、このオトガルは地上2階、地下1階の3階建てとあり、恐らくトルコ国内最大規模のバスターミナルだろう。バス停が3階建てというのはにわかには信じがたいが、トルコ人からすれば東京駅や新宿駅の方が「信ジラレナイ」ということになるのだろうからお互いさまだ。

アクサライ近くのユスフ・パシャからトラムに乗り、旧市街の中でもダウンタウンにあたる一角のギュルハネまで行き、さっさと身体を休めたいということもあり、イスタンブールに来たその日に泊まったEmek Hotelに行き、しばしの休息を取る。

日が中天に昇りかけた頃、のっそりと起き上がって街へ出た。
バス移動によって睡眠時間が乱れても小腹の空くのは健康体だからなのか、食い意地がはっているだけなのか。。。
今後の行動のためにも、小腹を満たさなければというわけで、トルコ版ファストフードともいえるドネルケバブ屋へ入った。

イスタンブール・ドネルケバブ


これはホットケーキよりも薄く、クレープよりも少々厚手のパン生地に削ぎ落とした牛肉やトマト、フライドポテトと共に香辛料と青唐辛子を包み込んで再び焼いた食べ物だ。ギョズレメというトルコ版お好み焼きの一種(亜種?)になるのだろうか?見かけよりもボリュームがあり、これとアイランで十分にお腹いっぱいになる。

腹も満ち満ちたところで、初日に遠くから眺めつつも中へは入らなかった聖アヤソフィア聖堂(Ayasofya Müzesi)へ行ってみる。

イスタンブール・アヤソフィア


アヤソフィア聖堂はビザンティン帝国(東ローマ)のコンスタンティウス2世によって360年に建てられたギリシア正教の本山だ。度重なる火災に遭い、532年にはニカの乱によってテオドシウス2世の建てた聖堂が焼け落ちたためにユスティアヌス帝が再建にとりかかり、537年にビザンティン美術の最高傑作とされるこの大聖堂が完成した。

聖堂内にはさまざまな色の細片(テッセラ)をすきまなく敷きならべて壁画や床の装飾にするモザイク技法を用いた画がある。モザイク画の細片は大理石や貴石、色ガラス、金銀箔のガラスなどで、それを漆喰の地に埋めこむので耐久性に富み、長い歳月を経ても色彩が失われないという特色を持つ。

これは聖母子に聖ソフィア聖堂を捧げるユスティニアス1世(左)とコンスタンティノープルの街を捧げるコンスタンティヌス1世の寄進図。
ポイントは両皇帝の顔が双子のようにそっくりなところ、だろうか?

イスタンブール・アヤソフィア


福音書を持つキリスト(中央)に金貨を捧げるコンスタンティノス9世モノマホス(左,在位1042~1055)と文字の記された巻物(寄進目録?)を捧げる皇后ゾイ(右)の寄進図(光の反射で一部白っぽい画像になってしまったが、ま、「ご愛敬」ということで^^;)

イスタンブール・アヤソフィア


キリストを膝に抱いた聖母に金貨袋を捧げるヨアンネス2世(左,在位1118~1143)と目録の巻物を持つ皇后イリニ(右)の寄進図。

イスタンブール・アヤソフィア


歴代皇帝は聖ソフィア聖堂に寄進しては、その様子をモザイク画に表していたようだ。

こちらは中央にキリスト、左に聖母もマリア、右に洗礼者ヨハネが描かれている。下半分が失われてしまったこのモザイク画は製作年が12世紀とする説や13世紀後半とする説もあり、皇帝不在のために年代を確定できないらしい。

イスタンブール・アヤソフィア


普段、「キリスト教といえばバチカンを中心とした西洋世界のもの」と思ってしまいがちだが、これらのモザイク画を見ると、そこには欧米のキリスト教世界とはまったく異なるキリスト教世界があると思わざるを得なかった。「キリストの顔はどのようなものだったのか?」などとは考えたこともなかったが、宗教画を描く際に自分たちに似せて描くことを考えれば、西洋絵画のキリストよりもこちらのキリスト像のほうが実物に幾分かは近いのではないか?キリスト教は中東で生まれ、普及していったという事実をもう少し強く意識した方が良いのではないか?   そんなことを漠然と考えてしまった。

2階にあるモザイク画を見た後に1階に下りると、そこにはイスラム教世界が広がっている。
キリスト教寺院になぜイスラム教世界が同居しているのか?
これは1453年にオスマン帝国のメフメット2世がコンスタンティノープルを陥落させた時に、この聖ソフィア聖堂をイスラム教のモスクに変えるように命じたことによるという。モザイク画が「偶像である」として漆喰で塗り込められたのはメフメット2世の曾孫にあたるスレイマン1世の時であり、再び姿を現すのはイスラムモスクを廃され、国立博物館となることが決定した1934年10月24日、つまり20世紀のトルコ共和国成立後であった。

これはメッカの方角(キブラ)を示す窪み「ミフラーブ」。
さすがに地方のモスクのものと比べて立派なものだw

アヤソフィア


これは「ミンバル」と呼ばれる説教壇。
イスラム指導者はこの階段に腰掛けて講話をしたという。但し、講話者はその時の位階によって座れる段が決まっており、通常、最上階に座れるのはマホメットのみで、どんなに位の高い指導者でもこの段はマホメットを憚って座らず、2~3段下に腰掛けるのが慣例であったとか。

アヤソフィア


その他にも堂内の方々に暗緑色のプレートが掲げられ、その中には金色のアラビア文字で「アッラー」や「マホメット」などの他に、「アブー・バクル」「ウマル」「アリー」などの正統カリフ時代の指導者の名前が記されている。

アヤソフィア


イスラム教は偶像崇拝を禁じているので文字を装飾化していった。これらの文字は19世紀の著名な書家ハッタト・ノーッゼト・エフェンディの作品であるそうな。世界広しといえども、書家が存在するのは漢字圏とアラビア文字圏だけであろう。

聖ソフィア聖堂を出て、トプカプ宮殿(Topkapı Sarayı Müzesi)へ   .

トプカプ宮殿


トプカプ宮殿はボスポラス海峡、金角湾、マルマラ海の三面の海を睥睨する高みにあり、メフメット2世時代の1472年に造営が始まり、1474年に竣工したといわれている。が、その後の歴代スルタンはさまざまな増築や改築を加え続け、第31代スルタンのアブドゥル・メジト1世が1858年にスルタン座を新市街側のドルマバフチェ宮殿に移すまでの約380年間を宮殿として使われていたので、増改築のない方がおかしいともいえる。
尚、トルコ語でトプは「大砲」を、カプは「門」を意味し、門に大砲が置かれていたことに由来するという。

この敬礼門をくぐり、右側へ進めば東洋の陶磁器の展示所となっている厨房、左側へ進めばハーレムがある。
旅行シーズンのハーレムは入口を見るだけでも混雑が凄まじく、早々に見学を諦めたMyrthaは厨房へ足を進めた。

厨房では数百人の料理人が宮廷内の人間や訪問客のために毎日料理を作っていたという。そしてこの厨房で作られた料理は展示されている陶磁器に盛られていたのだろうか?
歴代スルタンの陶磁器コレクションはおよそ12000点あり、中国製は宋・元・明が中心で、清に変わった混乱期以降は日本の有田や伊万里が多いようだ。日本製はともかく、中国製の陶磁器はシルクロードを通って来たものを入手したのだろうが、皿のように割れやすい物を一体どのように運んだのだろうか?ポエ爺の方を向くと、「それはですね。皿の周りを泥で固めて割れにくくして、目的地に着いたら泥付きの皿を池に放り込んで泥を落としていたのです」との答え。「ホントか?」と思わず疑いたくなるが、それが本当ならば、輸送にどれほど大変であったであろうか?!この展示室に陳列されている陶磁器研究者垂涎の食器たちは正に値千金の贅沢品であるのだ!

値千金の陶磁器群を見て回り、宝物館へ足を運ぶと、そこには筆舌に尽くしがたいものが待ち受けていた。宝物館の展示ケースの中には、中央に262カラットの南米産エメラルドが埋めこまれた「ターバン飾り」も、86カラットのダイヤモンドのまわりを小さなダイヤで取り囲んだ「スプーン職人のダイヤ」も、柄の部分に3個のエメラルドが嵌め込まれ、ダイヤとエナメルの細密画で飾られた「トプカプの短剣」も、なかったのだ!
盗難?非公開中?修理中?

カラのケースの中のプレートを見ると、「今は東京にあるよ~ん♪」と書かれている。
やられた・・・!
よりによって、東京にあるとは・・・(この時、東京都美術館でトルコ・イスタンブール歴史紀行 トプカプ宮殿の至宝展という催し物があったのだ)

あまりのことにどっと疲れの出たMyrthaを慰めるボスフォラス海峡はただただ青く、どこまでも青かった。。。
トプカプ宮殿より第一ボスポラス大橋を遠望。

トプカプ宮殿


他にも、預言者の遺物を保存してある聖遺物の間など、修理中の部屋がかなりあり、がっかりしたMyrthaはとぼとぼとトプカプ宮殿を後にした。
教訓;美術品の在りかや修理中などの事前情報はきちんと調べよう。。。

つづいて考古学博物館(Arkeoloji Müzesi)へ   .

考古学博物館


考古学博物館は、ギリシア、ローマ時代の彫像、墓碑、石棺などを展示した本館と、エジプト、メソポタミア、初期アナトリア文明の遺物を展示した古代オリエント博物館と、12世紀から20世紀までのセルジュク、オスマン時代の陶磁器の展示されている陶磁器博物館の三館からなる。

考古学博物館


のんびりとハドリアヌス帝像などを見ていたら職員と思しき人に早々に追い出されてしまった。「親切なトルコ人といえども役人はどこの国も同じか・・・」思わず毒づきたくなってしまったが、どうやら閉館時間は17時ではなく、16:30らしい。
教訓;ガイドブックを読むときは隅々までよく目を通そう。。。

どうも今日はタイミングが悪いと感じたMyrthaは街中のキオスクでEfesビールを購入し、とぼとぼとホテルへ戻るのであった   .


※トルコ旅行ひとくちメモ
イスタンブールに最初に集落をつくったのはトラキアからの移住者で、アジア側のカドゥキョイであったという。紀元前7世紀にビサス率いるギリシア・メガラ人移住者がデルフォイの信託に従って現在の旧市街の先端部一帯に街をひらいた。街は統率者に因んで「ビザンティオン(ビザンティウム)と呼ばれて海上交易で栄えたが、2世紀末にローマと敵対したためにセプティミウス・セヴェルス帝の怒りを買い、徹底的に破壊された。
A.D.330年、コンスタンティヌス帝はローマの都を再び栄えたこの地に移し、「コンスタンティヌスの街」の意であるコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と呼ばれるようになった。ローマ帝国が東西に分裂した後も東ローマ帝国として1000年以上も繁栄を続けたが、1204年に第4回十字軍がコンスタンティノープルを占拠して街は荒廃し、トルコ族の侵攻もあって次第に国力は衰えていき、セルジュク・トルコに替わってアナトリアを支配したオスマン・トルコのメフメット2世がこの地を包囲した時、東ローマ帝国領は現在のイスタンブール旧市街とわずかな周辺地だけとなっていた。
1453年、念願のコンスタンティノープルを奪取したメフメット2世はエディルネから都をコンスタンティノープルに移し、イスタンブルと呼んだ。こうしてイスタンブールの首都としての地位はオスマン帝国が第一次世界大戦に敗れた後の1923年にアンカラが新首都と定められるまで続き、現在もトルコ共和国の経済と文化の中心として栄えている。

アナトリア旅游12・ベルガマ篇(下)

12日目。
昨日や一昨日とまったく同じようで微妙に異なるような気のする朝食を食べ、昨日行ったアスクレピオンから微かに見えた未発掘の遺跡を見に行ってみようと言うことになった。
宿泊施設のチェック・アウトは10:00だと思い込んでいるMyrthaは部屋の引き渡しの時間までに戻ってこられないであろうことを心配したが、ポエ爺はまったく気にせず、「GOBIバーバーはバスに乗る時刻まで居ていいって!」と暢気に構えている。友人待遇なのか、常連(?)待遇なのか、もはや考えるのもばかばかしくなってきた。
とりあえず、未発掘の遺跡を見に行こうではないか!

アスクレピオンから北の方を眺めた時に現れた未発掘の遺跡を尋ねてまずはメインストリートを北上し、アクロポリス方面へ歩く。そして、メインストリートの終わるあたりを左折してひたすら西に向かって歩く。住宅街に入って途中、道行く人が近づいてくると、ポエ爺は「気をつけて」と緊張した小声を発し、足早に通行人から遠ざかった。子供達は相変わらず「Money! Money!」と近づいて来ては大人の姿を見ると声を潜め、再び「Money! Money!」と言い続ける。無言のまま足早に子供達からも離れて遺跡を目指した。

住宅街をぬけて緩やかな斜面まで来ると、さすがに子供達もここまではついてこない。遠巻きにこちらを眺め、時折小石を投げてくる。「ケチな外人」とでも思っているのだろうか?
子供達の方を見つつ、ポエ爺に訊ねた。
「ああいったことを平気でやるのは教育や親の躾のせいかね?」
「それもあるし、あとは経済問題だね。このあたりは市内でも貧しい人が多い一角なんだ。女性が一人で来るところではないね」
恒産なき者は恒心なし、か・・・いずれ、教育問題に経済問題もからめて考えてみようかと思うMyrthaであった。

子供達に背を向けて緩やかな坂を下っていくと、そこには埋もれかけた遺跡が静かに佇んでいた。

水上競技場跡


入口とおぼしきアーチをくぐってみる。
未発掘の遺跡といえども、多少は修復されているようだが、いつ崩落するとも限らないのでおそるおそる足早にくぐった。

水上競技場跡


アーチをくぐったところで目線を下にやると、トンネル状のものがある。
埋もれたのか、もともとトンネルのように掘ったものなのか、見当もつかない。

水上競技場跡


遺跡からアクロポリスを遠望。
擂り鉢状の野外劇場と、トラヤヌス神殿が青空によく映える。

水上競技場跡


ふたたび遺跡に目を向けると、今度は三連のアーチが目に入った。

水上競技場跡


それほど大きな遺跡にも見えないが、やはり埋没しているのだろうか?

水上競技場跡


一通り見終わった後、ポエ爺に解説を求めると、この遺跡はローマ帝国時代の水上競技場跡であるらしい。
資金難なのか、発掘作業が行えずに放置状態になっている遺跡がベルガマ市内には多数あるという。「ボクに大金があれば発掘作業をするのになぁ。。。作業をする時には有能な現場監督者が必要で、この人がキチンとした人でないと発掘をする人が遺物を盗んでしまったりと大変なんだよ・・・」
ポエ爺は発掘作業に携わったことがあるのだろうか?

未発掘の遺跡改め、未発掘の水上競技場跡を後にしてもと来た道を足早に戻る。先ほど小石を投げてきた子供達の姿はすでになく、照りつける太陽の下で牛馬の糞の風化を待つ姿があるばかりだ。

突然、ポエ爺が声を上げた!
「もう一度アスクレピオンに行く!昨日フィルムが無くなって写真が撮れなかったから!」
そうなのだ。このデジカメ全盛期の時代にポエ爺はフィルムを入れて撮影する一眼レフを愛用しているのだ。何度も行っているはずなのにそのたびに写真撮影は必要なのかとなかば呆れつつも、アスクレピオンを再訪することにした。

入口の管理人は「二日続けてくるとは物好きな観光客だ」という心を隠さずにニヤニヤと笑いつつ中に入れてくれた。
喜々としてシャッター音をうならせるポエ爺を傍目に、近くの石に腰を下ろし、暑さをやり過ごした。日が中天に上る頃は本当に暑いのだ。

ひとしきりシャッターを切りつづけたポエ爺だがさすがに飽きたのか、撮るものがなくなったのか、満足そうな顔を向けてきたので、アスクレピオンを出て街へ戻ることにした。昨日は気づかなかったが、この近くには軍の施設があるようで、兵士の姿がちらほらと見られる。

街へ戻るとポエ爺が買い物をしたいといい、商店へ入ってしまった。しばらく待つと中から大きな袋を両手にして出てきた。普段買い物らしい買い物をしない人が珍しいと思って購入物品について訊ねると、「チャイ道具を一式買った」とのこと。つまり、日本酒を飲むおちょこにぴったりのチャイカップと、ソーサーと、ティースプーンと、チャイを湧かす二層式ヤカンを買ったというのだ。どうやらポエ爺は日本に帰ってもチャイを飲み、トルコに思いを馳せるつもりらしい。チャイの茶葉が無くなったら煎茶でチャイの雰囲気を味わうつもりだろうか?

Gobi Pensionに戻ると、いつの間にか私は「GOBIバーバーの娘」ということになっていた。トルコにお父さんの出来るのは素敵なことだが事情がよくわからず、またポエ爺に解説を求めた。それによると、何でもトルコ族というのは元々が遊牧民族であって、部族ごとでかたまって生活をしていた。そうすると、牧草を求めて移動している時に他の部族と遭遇することもあるが、そのたびに争いをしていては無益であるから衝突を避けるために義理の親子・兄弟関係を結ぶこともあった。これはその名残り、とのこと。

夕方になって、GOBI一家が「さよなら&また会いましょうパーティー」と称してトルコの伝統的な家庭料理を振る舞ってくれた。
(写真はポエ爺を囲むGOBI家の人々↓)

GOBI Pension


GOBI母の心のこもった手料理はとても美味しく、自分の胃袋の小ささが恨めしいほどだった。ポエ爺は自称3500歳という超高齢でありながらぱくぱくと料理を口に運び、舌鼓を打っているというのに!嗚呼、我が胃袋のなんと貧弱なことよ!
どのようなレシピなのかと思って、接待に忙しいGOBI母に代わってGOBIバーバーにメニューを書き出してもらったが、達筆すぎて解読不可能だった(T_T)しかしながら、野菜と羊肉のトマト煮、ピラフ、ヨーグルトの冷製サラダ、スープ、トルコ風ミルクプリン、エクメックであったのは間違いない。

名残の尽きない晩餐も終わり、荷造りをして、GOBIバーバーに「また遊びに来る」と約束をして、この温かい一家と別れ、オトガルへ急いだ。
21:20。
イスタンブールに向かって、バスは夜の街中を静かに走り出した。


※トルコ旅行ひとくちメモ
ベルガマ(Bergama。旧称:Pergamon)はトルコ共和国の西部、エーゲ海から約20km内陸に入ったところにある人口10万人程の地方都市で、現在はイズミール県に属している。イズミール市の北方約90kmに位置し、同市からバスに揺られること2時間程度で到着する。市域はバクル川(カイコス川)下流域の平原北部に展開し、煙草や無花果などの集散地であり、製綿業などの基本産業の他にアクロポリスやアスクレピオン、クズル・アウルなどの観光資源に恵まれた都市だ。海岸にむかって20分程度自動車を走らせると、ディキリという海水浴に適した保養地があり、彼方に浮かぶレスボス島を眺めることが出来る。

アナトリア旅游11・ベルガマ篇(中)

「Günaydın!(ギュナイドゥン=おはよう)」
いつ頃からかはわからないが、ポエ爺をマネてGobi Pensionの中庭にいる客にトルコ語で挨拶をするようになっていた。他の外国人客は妙なアジア人が何かよくわからないことを言っていると思ったことだろう。

11日目。
昨日と変わらないエクメックとゆで玉子と果物とチャイの朝食を食べつつ、ポエ爺の行動予定を聞く。
曰く、「今日は昨日ダウンタウンの子供達が口々に言っていたアスクレピオン(Asklepieion)へ行こうと思うのだけれど、その前にイスタンブールへ戻るためのバスの乗車券を押さえようと思う」とのこと。
異論のないMyrthaは賛成し、食後のチャイを飲み干した。

Gobiペンションから目と鼻の先にあるオトガルへ行き、イスタンブール行きのバスの有無について尋ねると、明日の21:15発があるという。40YTLという金額に驚いていたポエ爺だが、大手バス会社METROであるならば、ある程度値の張るのも仕方がないだろう。その乗車券を購入し、ついでに郵便局へ行って書きためていた葉書を投函し、これまたついでに銀行へ行って多少の米ドルをトルコ紙幣に換金し、漸くアスクレピオンへ向かったのは真昼の頃だ。

確か、このあたりにあったはずなのだが   .
というポエ爺のあやふやな記憶を頼りに照りつける太陽の下を歩いていると、突然、列柱廊が見えてきた!

アスクレピオン


どうやらこれがアスクレピオンの入口の「聖なる参道」らしい。
この聖なる参道は、かつてはアクロポリスの裾から続いていたという。
入場料として10YTLを払い、中へ   .

アスクレピオンは医学の神アスクレピオスへの信仰を起源に持つ医療施設で、古代ギリシアのエピダウロスを発祥地とし、アテナイを始めとしてローマやコス島、クニドス島にも分祠されて同様の施設が出来たという。ペルガモンへの分祠は『ギリシア案内記』の著者にしてギリシアの旅行家、地理学者でもあるパウサニアスによれば紀元前4世紀頃とされているものの、現存する史跡はハドリアヌス帝(A.D.211~138在位)の頃のものが殆どだという。

入口の壁には「死は入るべからず」と彫られており、入院希望者はまずは医師の診察を受けねばならず、治療の見込みがなければ門内に立ち入ることは出来なかったという。そればかりか、入院してもなかなか治癒しない者を院外に追いだしたこともあったという。なぜならば、アスクレピオンの神域ではハデス(死者の国の神)の侵入を許すわけにはいかなかったからだ。

門前付近にある蛇と椀の柱石。

アスクレピオン


門前で入院を拒否された病人の中には悲嘆に暮れて椀に蛇の毒を入れて自棄飲みする者もいたという。幸いにもこの病人は死ぬどころか毒のショックで病気が治ってしまい、この施設の医学者であったガレノスは「毒も用い方次第で有効であると思っていたが、人体実験をするわけにはいかなかったのだ」と述懐し、この蛇を施設の象徴としたという。
蛇は脱皮を繰り返し、さらに暗い地中から這い出てくることから蘇生・再生・復活の象徴とも見なされていたという。現在のWHO(世界保健機構)のシンボルになっているのもこれによるとのこと。

聖なる地下道を通って治療棟へ   .

アスクレピオン


施設内にはいくつかの井戸や池泉があり、飲料や患者の水浴に使われていたらしい。そのうちの一つから水が引かれ、屋根で覆われ、換気・採光用の窓が12箇所穿たれている長さ80メートルの地下道の床下へと流されている。
聖泉で身を清めた患者は流れる水音を聞きつつ神妙な面持ちで地下道を通って治療棟へ向かったのであろう。

アスクレピオンの心臓部・治療棟へ   .

アスクレピオン


この治療棟はアスクレピオンの心臓部で診察は勿論のこと、医療研究も行われていたという。建築構造は直径26.5メートルの円形の二階建てで、全体は大理石で覆われ、周囲には水路がめぐっていたようだが、さすがに今は水跡すらなく、2階部分も崩落している。

アスクレピオン


治療棟での治療方法は、本体の円形に付属している6箇所の突起部分(アプシス)で行われ、夢占いや自己暗示による催眠療法を中心として、その他にも水浴や日光浴、観劇、軽度の運動、音楽鑑賞などのストレスを発散するリハビリ的なものを用いたという。また、医師は天井部分に残されている伝声管からまどろんでいる患者にむかって「アスクレピオスのお告げ」という形をとって言葉をささやきかけて治したと考えられている。

治療棟の隣にあるアスクレピオス神殿へ   .

アスクレピオン


前門の南に位置するこの神殿は施設全体の精神的支柱として存在し、直径24メートルほどの円形構造の内部にはアスクレピオス像が納められていたという。

廻廊を見学。

アスクレピオン


この南廻廊は2階建てのイオニア式列柱廻廊だったようだが2階部分は何も残されておらず、同様に西廻廊もわずかばかりの柱石が残る何もない状態だった。西廻廊のさらに西へ行ったところでは泥風呂療法が行われていたという。
因みに近年の調査で南廻廊と西廻廊の交わるあたりに二棟の遺構が発見され、これらが男女別のトイレであることがわかったという。内部は大理石製とのことだが、「トイレを大理石で・・・」と考えてしまうのは現代人的発想で、古代人にとっては「アタリマエのもの」だったのだろう。

アスクレピオン廻廊よりアクロポリスを遠望。

アスクレピオン


オデオンへ   .

アスクレピオン


オデオンとは小劇場のことで、収容人数は3500人とアクロポリスの劇場に比べれば小規模だが、客席層は同じように3層で、大理石製の貴賓席もあった。ここでは詩歌の朗読会や音楽会などの催し物を鑑賞することによって憂鬱な気分を払い、平癒を促進する狙いがあったという。
ポエ爺曰く、「そういった意味ではトイレが肉体的排泄行為をするところならば、ここは精神的排泄行為をする場所だね。人間の一生は食べ物であれ、カネであれ、ストレスであれ、所詮は出し入れの生涯だよ♪」
・・・ポエ爺よ。さきほどのトイレ跡を見て妙な悟りを開いたのか?(-_-;)

オデオンを上ると数本の松の木が空にむかって聳え、その根元には平たい石が置かれている。まるで天然のテーブルのようだ。丁度良いとばかりにGobiペンションの冷蔵庫で冷やしておいた白ブドウを食べて水分と糖分を補給し、石のテーブルにごろりと横になる。松風がさやとそそぎ、昼間の暑さを和らげてくれる。世界中ではビジネスマンがあくせくと働いているであろうに、何と贅沢なひとときだろうか!

オデオンを下りて北廻廊を見学。

アスクレピオン


北廻廊は他の廻廊よりも保存状態が良く、イオニア式の柱石が残されている。面白いのは写真右側にある数本の柱石がコリント式に変わっていることだ。これは、本来はイオニア式の柱石であったものが、紀元175年のアナトリア西部大地震によって倒壊し、当時の統治者であったローマ人が自分達好みのコリント式にかえてしまったことによるらしい。

そしてこの廻廊には土が敷かれてあり、患者はその上を裸足で歩いて鬱屈した気分を晴らしたとのこと。泥風呂療法といい、裸足療法といい、どれも古代人が開発していたとは驚くばかりだ。現代人も靴ばかり履いていないで、時には泥んこになって遊んだり、裸足になって歩くということが必要なのだろうか?

古代の診療施設に別れを告げて、白ブドウやチーズなどの買い物をしつつGobiペンションに戻ると、Gobiバーバーが「あそこのアイスクリーム屋は美味しいよ」とペンションのはす向かいにあるアイスクリーム・ショップを紹介してくれた。

ベルガマ・アイスクリーム屋


さっそくROMAアイスクリーム屋へ行ってみた。アイスクリームの入れられた冷凍庫は日本のものとあまり変わらないデザインなので中身はよく見える。見えるのだが・・・色とりどりのアイスクリームといえども何の味なのか見当もつかない。おまけに親切な店員さんが一々説明してくれるものの、結局さっぱりわからない・・・ということで、4盛り選んで良いといわれたので適当に黄色、オレンジ色、赤色、薄い若草色を選んだ。
三角コーンに山と盛られたアイスクリーム。そしてその上にはナッツを砕いたようなものをトッピングしてくれた。味は、黄色がレモン、オレンジ色がオレンジ、薄い若草色はピスタチオであるらしい。赤色は・・・チェリーだろうか?写真を撮ったら近すぎたのかピンボケしてしまい、Upできず。残念。。。

夕飯はGobiペンションの隣にあるKERVAN PIDE ve ÇORBA SALONUへピザを食べに行った。

ベルガマ・ピザ屋


ピザというと即座にイタリアを連想してしまうが、トルコにもピデという舟形をしたトルコ風ピザがあるのだ。
とりあえず挽肉とチーズのピデを注文してみたが、あまりの量の多さにびっくり!これで5YTLはかなりお得な気がするゾ。
腹もふくれてGobiペンションの一室に戻り、ごろりと横になって物思いに耽る。帰国の日が刻々と迫っているのだ   .


※トルコ旅行ひとくち5くちメモ
ペルガモン王国はアレクサンドロス大王の没後(B.C.323)、アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトというヘレニズム世界で離合集散を繰り返す中で、その間隙を縫うようにして紀元前3世紀に成立した。当時、南西アナトリアを領有していたリシマコスはペルガモンのもつ地理的重要性を見抜き、ここに軍事拠点を置き、武将のフィレタイロスに管理を任せた。リシマコスがセレウコス朝シリアとの抗争で戦死すると、フィレタイロスが継承し、ペルガモンの創世につとめたが、嫡子のないフィレタイロスは甥のエウメネス(エウメネス1世)を後継者とした。
エウメネス1世(EumenesⅠ B.C.263~B.C.241在位)は、外交上対立関係にあった大国セレウコス朝シリアをB.C.261年にサルディス平原での戦いで撃破し、暫定的に問題を解決したが、隣接する剽悍な民族であるガラティア人との対立は貢納品を贈るという消極策を取らざるを得なかった。しかしながらその間にアクロポリスの改造や新城増築などのペルガモン王国の基礎作りを行った。
先王の嫡男がアッタロス1世(AttalosⅠ B.C.241~B.C.197在位)として即位すると、ガラティア人に対する貢納政策を止めたために攻防戦が繰り広げられ、領内に侵攻される事態に発展したが、遂にガラティア人を撃退し、住民から「ソテル(救済者)」と称された。さらにマルマラ海沿岸にまで領土を拡張し、マケドニアや西方ローマとも友好関係を結び、黄金時代幕開けの準備役をはたした。
エウメネス2世(EumenesⅡ B.C.197~B.C.159在位)が即位すると、基本的には先王アッタロス1世の方針を受け継ぎ、対ガラティア人問題や対シリア問題もペルガモンの優勢を保ち、ローマとの友好関係も利用しつつカッパドキアまで領土を拡張し、政治・外交・軍事各方面に成功を収めた。また、哲学・数学・天文学などの学問や、建築・機械・造船・皮革加工技術・彫刻などの文化事業も盛んになり、ペルガモン王国最大の繁栄期を迎えた。現在のアクロポリスで見受けられる遺跡群の殆どがこの時代のものである。
先王の弟であるアッタロス2世(AttalosⅡ B.C.159~B.c.138在位)は「フィラデルフォス(兄思いの)」という異名があり、即位以後もその政策継承を忠実に行っていた。エフェソス港の改修工事や公共事業も行われ、その繁栄の余光を帯びている中で隣国との国境紛争をローマが仲介するなど、次第にローマの影響が忍びよって来た時期でもあった。
甥のアッタロス3世(AttalosⅢ B.C.138~B.C.133在位)は即位しても忍びよるローマの影も王国衰亡の兆しにも気づかず、政治は側近に任せたまま、自分は薬草研究のために庭に薬草畑を作ったり、優秀な人物を殺害してその財産を奪ったりしていた。最愛の母や妻が他界すると生きる気力を失ったのか間もなく他界した。遺言により王国の全領土はローマに委譲された。ローマはペルガモンを自由都市とし、以後も繁栄は続いたが、7世紀のアラブ人の侵略によって町は疲弊した。復興は14世紀のセルジュク勢力の時であるという。

アナトリア旅游10・ベルガマ篇(上)

10日目。
中庭へ出ると、朝食を出された。
GOBI Pensionでの朝食もコンチネンタル式のもののようだ。お約束ごとのようにメニューを挙げてみよう。
バター・苺ジャム・チーズ2種・桃・白オリーブ・キュウリ・トマト・ゆで玉子・シガラ・ボレイ(トルコ風揚げ春巻き)・スイカ・エクメック(パン)。キュウリは相変わらず皮をきれいに剥かれている。お国の文化の違いというものだろうか?不思議だ。

ベルガマ・朝食


am10:00
GOBIペンションを出発し、街の北側にある市内最大の遺跡であるアクロポリス(Akropol)へ向かった。

街を抜けて高台への上り坂を時に雨のように降りかかる蝉の鳴き声のシャワーをくぐり、時に牛の落とし物(けっこう大きいゾw)を横目にしつつひたすら黙々と歩く。湿度を含んだ日の光が大地と道行くMyrthaをちりちりと照らす。水分補給と小休止は必須だ。

休み休み1時間半ほど歩いた頃、ようやくアクロポリスの入口にたどり着いた。
アクロポリスは標高335メートルのところにあるらしい。と、いうことは、335メートルも上ってきたのかぁ。。。直線距離だとたいしたことはないけれど、迂回して歩くとかなりの距離を歩いたことになる。足早の観光旅行をされる方は自動車などの移動手段を考えた方がいいだろう。
入場料として10YTLを払い、いよいよ中へ   .

まずはこの遺跡の発見者カール・フーマン(Carl Humann)に敬意を表して彼の亡骸の眠るお墓を参拝。

カール・フーマン墓


鉄道技師のカール・フーマンがこの遺跡を発見するに至ったのは、1871年にイスタンブール・イズミール間の鉄道敷設工事の際に工事現場からフリーズ(ゼウス神殿の小壁)の断片を発見したことによるそうな。フーマンは発見した断片をベルリンの考古学者コンツェ(Alexander Conze)に送ったことから調査発掘作業が始まり、今に至るも発掘作業が続いているという。「自分が発掘した遺跡の傍らに葬ってもらえるとは羨ましいかぎりだなぁ」とはポエ爺のつぶやきであった。

次にゼウスの神殿を参観。

ゼウス神殿


ゼウスの神殿はペルガモン王国のエウメネス2世がガラティア人に対する戦勝記念としてゼウスに感謝を捧げた祭壇で国威発揚の象徴的役割を担い、祭壇は縦36メートル、横34メートルの西側に開いた馬蹄形で5段の基壇上に浮彫のある小壁や屋根付き回廊が乗り、豪壮を極めたといわれるが発掘当時に全てベルリン博物館に持ち去られ、未だに返還されずに基壇と松の木が見えるのみである。ポエ爺の顔を見ると、「ベルリン博物館はけしからん!」と書かれていた。

野外劇場を横目に過ぎりつつ、劇場テラスの北端に建つデュオニュソス神殿も見学。

デュオニュソス神殿


デュオニュソスはバッカスとも呼ばれる酒と狂乱の神であると同時に、舞踊と音楽に興奮を求めたことから演劇の神ともされ、地中海都市では劇場付近にこの神殿を置くのが通例になっているのだとか。
この神殿はB.C.2世紀の建造とされているものの、ローマ帝政期の火災後にカラカラ帝(A.D.211~217在位)が大理石で再建したと伝えられている。

デュオニュソス神殿より野外劇場の客席を眺望。

野外劇場


劇場の舞台近くに放置されていたレリーフ。

アクロポリス浮彫


顔は羊や馬のようであるが、身体は蛇や龍のように細長い。このかわいらしい浮彫は当時の伝説上の生き物だったのであろうか?

野外劇場全景。

野外劇場


この野外劇場は収容人数1万人ほどでエフェソス遺跡群の野外劇場ほどの規模はないものの、イオニア地方ではもっとも急傾斜に富んだ劇場で、客席は全3層、80段からなり、舞台に最も近い貴賓席は大理石製、他は安山岩製で、中間層市民が利用したという。
また、舞台背後にはデュオニュソス神殿から南へ250メートルに渡って伸びる列柱廊があり、商店が賑わいを見せていたというが、今は細い道が残っているのみである。

急傾斜の野外劇場の階段(客席?)をよじ登るように上がり、アテネ神殿&図書館へ。

息を切らせて急階段(当時は立派な座席だったのだろう)を登り切った先にあった物は、「原っぱ」だった。
「思わず絶句してしまうほどの何もなさ」に呆然とし、写真を撮ることも忘れ(と、いうわけでアテネ神殿及び図書館跡の写真はありません。見たい方は現地に飛んで下さい)、「ホントにここにアテネ神殿と図書館があったの?」と疑いの目でポエ爺を見ると、つぶらなおめめをきらきらさせている。どうやらポエ爺の目にはアテネ神殿と図書館が見えているらしい(-_-;)

以下、ポエ爺が見えているらしいアテネ神殿と図書館の様子ナリ。
アテネ神殿はアクロポリス最古の建造物で紀元前4世紀に建立され、二段の基壇の上にのるこの神殿は安山岩製のコリント式列柱による周柱式のもので、二つに仕切られた内部の部屋には各々にアテナとゼウスが祀られ、更に境内の東と北には二層の廻廊がめぐらされていたという。
東廻廊は一階がドーリア式、二階はイオニア式で、エウメネス2世によって建造されたことがわかっており、北廻廊一階壁面はストラトニコスやフィロマキオスらの手によって作られた浮彫や彫刻で飾られ、二階は隣接する図書館への入口へ通じていた。

図書館はエジプトのアレクサンドリア図書館に次ぐ規模を誇っていた智慧の蔵で、20万点の蔵書が図書館の北側と東側に保管されていたという。西側は湿気が多く、書籍整理に気を遣ったようで、湿気対策として壁を二重にするという工夫を凝らしている。また、図書館内には四つのホールがあり、最も大きな部屋が閲覧室であったとされ、英知の象徴たるアテナ像が安置されていたという。ちなみにこのアテナ像は高さが4.5メートルあったことから、閲覧室の高さは約6メートルと推測されている。いやはや古代にこれほど大きな建造物を造ってしまうとはただただ驚くばかりだ。

余談であるがその昔、アレクサンドリア図書館はペルガモンの図書館にその地位を脅かされそうになった時にパピルスの輸出を禁止するという政策をとったが、ペルガモンは山羊や羊の皮をなめして作った羊皮紙を使用して蔵書数を増やしたという。羊皮紙を意味する「parchment」という英語は「Pergamena Charta」を語源にしているという。
(-_-;).。oO(皮のために一体どれほどの山羊や羊が殺されたのだろうか・・・)

図書館からトラヤヌス神殿へ。

トラヤヌス神殿


トラヤヌス神殿はアクロポリスの中でも最良の立地にあり、青天に映える白大理石がベルガマ市内からでも見えるほどだ。ローマ人好みのコリント式列柱が三方をとりまく周柱式で、落成は次のハドリアヌス帝の時であったらしい。
また、賢帝とはいえ人間であったトラヤヌスが神として祀られた背景にはローマ帝国の政治的思惑(属州の統治や非ローマ人の結束・反乱防止など)があり、皇帝神殿は皇帝を信仰するというよりは、その都市の政治的権威や地位の高さを示す性格が強く、宗教的意味合いは希薄だという。

トラヤヌス神殿の裏へ回って北側の武器庫へ。

武器庫


トラヤヌス神殿北部はアクロポリス全体の最北端にあたり、ここに紀元前3~2世紀頃建造とされる武器庫が残っている。武器の他に食料の保存もでき、換気用の通気孔を使っての長期保存も可能であったという。

武器庫より人工湖を遠望。

人工湖


ベルガマ市民にとっての水瓶とも言える人工湖も今は乾期にあたるので随分と水量が減っており、水不足の心配をしてしまうが、雨期になればこの水瓶も満たされ、水不足の心配はなくなるという。

アクロポリスの一角より、ベルガマ市内を遠望。

アクロポリスよりベルガマを眺望


街の屋根が一色にまとめられているので統一感があって美しいが、その一方で「それしか建築素材がなかったから統一感が持てた」という見方も出来そうだ。アクロポリスはその名の通り高台にあるので上昇気流が強いのだが、その風はとても爽やかであり、心地良い優しさをふくんだ、ずっと浴びていたいような風であった。

ひと通りの見学を終えて、木陰でGOBIペンションを発つときに持参した白ブドウを食べつつひと休みをする。午前中から遺跡を見ていたので観光客は少なかったが、午後になったあたりから観光バスをチラホラと見かけるようになった。写真を撮るならば、午前中に訪れるのがよいかも知れない。

アクロポリスを離れ、街へ戻るために来た道をてくてくのろのろと歩いているとクラックションが鳴り響き、一台の車が止まった。何でも街へ出るなら乗せていってやるぞということらしい。ありがたく乗車させていただくことにした。家族旅行中のトルコ人と片言ながらの会話を楽しんでいると瞬く間に元来た道を通り、目的地に到着した。徒歩で1時間以上もかかった道がたったの数分で着いてしまうとは、文明の利器や恐るべし!重ね重ねの礼を言い、お互いの旅がよいものになるようにと言葉を交わして親切な一家と別れた。

クズル・アウル


クズル・アウル(Kızıl Avlu)は「赤の館(Red Basilica)」とも呼ばれ、その名の通り赤いレンガを積み重ねて造られた建物で、縦26メートル、横60メートル、高さ19メートルという大きなものだ。2世紀にローマ人の間で広く信仰されていたエジプトのセラピス神とイシス女神を祀る神殿として建てられたが、ビザンティン時代にはキリスト教会として使われていたという。
工事中だったので入館せずに外部から撮影。

GOBIペンションへもどるにあたって、行きとは違う道を歩いていると住宅街に迷い込んでしまった。照りつける日差しの中は熱くとも、日陰に入ればひんやりと涼しく、薄暗い。
薄闇の中で日の光を一身に浴びているのはイスラム寺院のミナレットだ。

ベルガマ


観光客が物珍しいというわけでもないのだろうが、カメラを片手に町中を歩いていると「Photo!Photo!」と子供達に写真撮影をせがまれる。

ベルガマ


これは男女を問わず、大抵の子供ならば嬉しそうに「私を撮影して!」とばかりにポーズをとってくる。

ベルガマ


デジカメでの撮影であるからポエ爺のようにフィルムの心配はしなくともすむので撮影には何の問題もないが、撮影をしたところでその写真が自分の物になるわけではないのだ。写真が欲しいというよりも、撮影されることそのものが嬉しいのだろうか?日本人にはよくわからない感覚だ(-_-;)

ベルガマ


子供達に求められるまま写真を撮っていたら、いつの間にか周りを囲まれてしまった。そして、彼らが口にする言葉は「Photo!」ではなく、「Money!Money!」に変わっていたのには面食らった。
子供達に周りを囲まれたまま辺りを見回すと、前方にモスクがあった。あそこならば誰か大人がいるだろうと思って歩を進めると、子供達は「Money!Money!」という声を潜め、Myrthaとポエ爺を囲んだままモスクまでついてきた。
そして、「写真をくれ!」と言い出したのには少々困った。というのも、子供達に送り先を聞いても住所を知っているのか疑問だったからだ。

ベルガマ


モスクの敷地内で大人の姿を確認すると彼らに事情を話し、モスクの住所を紙に書いてもらい、子供達に後日写真を送ると約束をした。喜んでくれるのはよいが、一向に立ち去る気配のない子供達・・・
こちらもそろそろ子供達と別れて自由に街中を逍遙したいのでモスクを後にした。すると、後をついてくる子供達。そして再び「Money!Money!」の声・・・

とりあえず大人がいれば「Money!Money!」とは言わないらしいと察したMyrthaはポエ爺に大人のいるところへ行こうと提案し、引き続き町中をふらふらと歩き続ける。数分ほど歩いた頃、大人達の集まる一角を見かけたのでそちらへ向かった。なおもついてくる子供達。店の入口付近のイスに腰掛ける老人に「どうしたね?」と言うようなことを聞かれたので、子供達を指さすと、「まぁ、入りなされ」とばかりに店内に招き入れられた。

ベルガマ・チャイ・ハネ


Myrthaとポエ爺が店の中に入ると子供達もそれに続こうとしたが、店の入口付近にいる大人達に追い払われてしまった。どうやらこのような大人の集う店に子供は入れないという暗黙のルールがあるらしい。平然と子供を入れる日本の居酒屋とは大違いだ。
子供達が立ち去った後、ご老人が店員にひと言二言何かをいうと、3人分のチャイが出てきた。勧められるままにチャイを口にしているとご老人がゆったりと口を開いた。
「お二人さん、どこから来なすったね?」
「Japon」
感心したように何度もうなずくご老人。以下、トルコ語のみのご老人の話をMyrthaは見当すらつけられず、会話は全てポエ爺に任せてしまった。Myrthaのやったことといえば、大人しくそしてにこやかにチャイをすすることと、たまたま持っていた紙を正方形に切って鶴を折ってご老人を驚かせたことと、一緒に写真撮影をしたことくらいだ。
「国に帰ったら、写真を送ってくれまいか?」とのご老人の申し出に快諾し、送り先を紙に書いてもらおうとしたところ、ご老人は若者に代筆してもらっていた。文盲ということか・・・?
それにしてもご老人よ。Myrthaはポエ爺の「マダム」ではありませんゾ。。。

重ね重ねの礼を言い、ご老人と別れた後、狐につままれたような心境のMyrthaはポエ爺にこの不思議な出来事について話してもらったところ、ポエ爺がいうには「子供といい、老人といい、一昔前のトルコそのものの貴重な体験をしたね」とのことであった。EU加盟を目指す国の子供達が、戦後まもなくの日本の子供達が進駐軍にチョコレートをねだるが如くに「Money!Money!」と観光客に小金をねだっている   EU加盟は国民の幸せにつながるのだろうかと首をかしげるMyrthaであった。

不思議な老人と子供達のいたベルガマ市の中でもダウンタウンにあたる場所を離れて途中にあったスーパーマーケットに寄り、ヨーグルトやチーズ、アイランなどの食品類を買ってGOBIペンションに戻った。よく冷えたアイランを飲みつつ、やはりあのご老人は不思議だったと思うMyrthaであった。


※トルコ旅行ひとくちメモ
日本では甘いデザートであるヨーグルトだが、トルコでは甘いヨーグルトはまったくと言ってよいほど見かけない。遊牧民がルーツのトルコ人にとっては家畜の乳から作られたヨーグルトはメインの肉料理にかけたり、調味料として使う貴重な蛋白源の一つであるという。また、アイラン(Ayran)という塩味のヨーグルト・ドリンクもあり、これはロカンタや食品店でも売られているので一度は飲んでみたい飲み物だ。作り方はいたって簡単で、ヨーグルトと水を1:1の割合でボウルに入れ、塩をひとつまみかふたつまみほど入れて泡立て器でよくかき混ぜれば完成だ(ミキサーでの攪拌も可)。汗をかく夏場はミネラルが不足しがちになるので塩味はとても美味しく感じられるが、二日酔いの時の飲み物としても良いと思うのは私だけだろうか?(賛同者ヲ求ムw)
余談だがトルコ人は「ヨーグルトはトルコが発祥」だと思っており、家庭によっては秘伝の菌種もあったりして日本でいう味噌や醤油のような存在とも言えそうだ。

アナトリア旅游9・セルチュク→ベルガマ篇

9日目。
いつもより早起きをしてHomeros Pensionのシスター・オヤに別れを告げると、花柄のスカーフを首に巻いてくれた。なんでも昨日渡したくす玉のお礼だという。ありがたく頂戴した。

セルチュクのオトガルに行き、「早朝だから道中お食べなさい」とシスター・オヤの母君より手渡されたパンとチーズを食し、バスに乗ってセルチュクの町に別れを告げた。

1時間ほどバスに揺られていると、イズミールのオトガルに着いた。
流石にトルコ第三の都市という規模を誇るイズミールにあるオトガルはセルチュクのオトガルと比べて大きい。
いつ発車するともわからぬベルガマ行きのバスの乗車券を求めて、少々奥まった所にある乗車券売り場へむかって足早に歩いた。
ポエ爺がいてくれたからすんなりと乗車券売り場まで行けたが、方向音痴で迷子になることが得意なMyrthaでは確実に迷子になっていただろう。ベルガマ行きのバスは8:30に出発で、一人あたり20YTLだという。さすがにMETROは大手バス会社だけあって少々割高だなぁ。。。

無事に乗車券を購入し、オトガルで一夜を過ごさずに済んだと一安心したところで、きょろきょろとオトガル内を見回した。イズミールのオトガルは一つのビルになっており、旅行者が足早に過ぎ去っていく。

イズミール・オトガル


この空港のような規模を誇るオトガルには軽食を食べられるところもあり、朝の喫茶を楽しむ人や、新聞を読む人の姿も見られた。

イズミール・オトガル


そしてここはバスターミナルだけのことはあり、軽食をとれるエリアの反対側には大小さまざまな大きさのバスが出発時刻を待ちつつずらりと並んでいる。賑やかだが猥雑さが感じられないのは、アジアといえどもヨーロッパに近い地域だからだろうか?

イズミール・オトガル


再び2時間ほどバスに揺られてベルガマに到着した。
リュックサックを背負い、「今度は何キロ歩かされるのかなぁ…?」などと思いつつポエ爺の後をついて行くと、オトガルからさほど遠くないGOBI Pensionに着いた。
ブザーを鳴らすとペンションのオーナーとおぼしき老人が姿を現し、「やぁやぁ良く来たね!久しぶり!元気だったか?」と言ってポエ爺と再会の抱擁を交わしていた。この老人もポエ爺の友人であるらしい。

案内された部屋に荷物を置き、GOBIバーバー(「GOBIおやじ」の意)の話にあったバザールを見に行くことにした。なんでもこのバザールは毎週土曜日にだけ開かれるものであるらしい。

週に一日だけ開かれるバザールは町の人々の生活用品で満ちあふれていた。
魚売りあり   .
氷の上に魚を置かずとも腐らないのだろうか?それともトルコでは生食をしないので少しくらい腐っても気にしないのだろうか?

ベルガマ・バザール


茄子やトマトの野菜売りあり   .
何と太いキュウリなのだろう!そして、何と細長く、大きな茄子なのだろうか!そして日本で売られている茄子がなんと小さく、形もそろえられていることか!

ベルガマ・バザール


油やスパイスなどの調味料売りあり   .
調理用油とスパイスというだけしかわからないなぁ。。。一体全体、どのような料理に使うのだろうか?

ベルガマ・バザール


トルコ風パスタ売りあり   .
なぜほうきと一緒に売られているのかはナゾだ^^;

ベルガマ・バザール


手芸品売りあり   .
このカラフルな布と糸でどのような物を作るのだろうか?

ベルガマ・バザール


おもちゃ売りあり   .
日本の縁日や夜の駅前の露店などで売られていそうな人形だが、売れているのだろうか?

ベルガマ・バザール


造花売りあり   .
作りながら販売しているようだが、この造花は自宅の部屋に飾ったりするのだろうか?

ベルガマ・バザール


布売りあり   .
ポーズを決めてくれているが、「いかにも中東方面にいます」という雰囲気をただよわせているおやじだなぁ…

ベルガマ・バザール


バザールを一周したところでお昼の時間であることに気づき、近くにある庶民向けのレストランに入った。
ここで注文したものは、キョフテというトルコ風のスパイシーなハンバーグとチェリージュースだ。
そして案の定、「どうぞご自由にお召し上がり下さい」とばかりにバスケットに入れられたエクメックがテーブルに置かれたw

ベルガマ・キョフテ


昼食後、市内をうろうろと歩き回っていると、またバザールに戻って来てしまった。どうやらバザールの周りを歩き回っていただけだったようだ。そこで、ブドウや桃、スイカなどの果物や、チーズ、ワインなどを購入してGOBIペンションに戻ることにした。

ペンションに戻ると先ほど購入した食べ物を「宿泊者専用冷蔵庫」に入れ(名前を書いた袋に入れるのがルールらしい)、入口にあるテラスで旅行記を書いたり、ポエ爺から「GOBI家のお嬢さんにプレゼントしたい」と依頼のあったくす玉を作ったりしていると、GOBIバーバーの息子であるムスタファさんがチャイを入れて下さった。
GOBI一家に温かく迎えられたMyrthaは、数日間滞在するこの町でも良いことがあるのではないかと胸をときめかせた。



※トルコ旅行ひとくちメモ
紀元前10世紀頃にイオニア人の移住によってひらけたとされるイズミール(İzmir)は、古くはスミルナと呼ばれ、リディア・ペルシアからアレクサンドロス大王の支配を経て、紀元前1世紀よりローマ帝国、4世紀以降は東ローマ帝国の支配下で大いに発展した。1425年にオスマン帝國領に組み入れられ、キリスト教徒・ユダヤ教徒などのイスラム教徒以外の異教徒が人口の半分を超えていたという。オスマン帝國が崩壊した時にギリシアがイズミールに軍を上陸させ、それを阻止したアタテュルク率いる軍に大敗するという事件が起きた。ギリシア軍がイズミールから引き上げる途中に発生した大火災によって旧市街の大半は灰となり、多くの歴史的遺産も失われてしまった。
現在ではイスタンブールに次ぐ第二の港湾施設を持ち、トルコ第三の人口を抱える都市として栄え、旅行者が周辺の遺跡やリゾート起点として滞在する観光地にもなっている。また、NATOの司令部が置かれているのもこの都市である。

アナトリア旅游8・セルチュク篇(下)

8日目。
階上のテラスへ行くと朝食を出された。
昨日と同じく果物ばかりの朝食だが、今日はアプリコットがもう一つ追加されている。
朝食を食べつつ、旅程についてをポエ爺と話し合った。

ポエ爺の旅行計画によると、明日には次の街へ移動するが、その街はセルチュクからの直行便のバスはなく、一度、イズミールへ出なければならないという。そして、バスの乗り継ぎがイズミールでうまくいけばよいが、乗り継ぎがうまくいかないと、オトガル内で一夜を明かすことになりかねないという(なんてこったい!)。
そこでまずはセルチュク内のオトガルへ行き、明日のイズミール行きバスを押さえることにした。

オトガルへ行き、イズミール行きのバスの乗車券を求めると、一人6YTLで早朝の6時50分に発つという。少々早すぎるような気もするが、これだけ早ければイズミールで夜を明かすこともなかろうということで、明日のセルチュク出立時刻は6時50分となった。

明日のバスの工面もついたし、さあ!セルチュクの街を逍遙するぞ!

まず最初に訪れたのは、聖ヨハネ教会跡(St.John (Aziz Yohya)Kilisesi)。
キリスト教の12使徒の一人で小アジアの地に7つの教会を建立したヨハネは、イエスの死後、聖母マリアを守りながらこの地で過ごし、この町にあるアヤ・ソルクの丘に埋葬されたといわれている。
ヨハネの住んでいたこの礼拝堂は、6世紀にローマ皇帝ユスティニアヌスが教会に変えたが、14世紀初期にはイスラム寺院として使われていたといわれる。この教会跡は正面入口の追撃門のほか、東西にも門があり、中庭を通じて6つのドームをもつ本館が建てられていたらしい。

聖ヨハネ教会跡



正面入口を入ってすぐの風景。

聖ヨハネ教会跡


アヤ・ソルクの城塞を背景に   .

聖ヨハネ教会跡


お気に入りの一枚(この一枚だけは拡大してみた方がいいなぁw)

聖ヨハネ教会跡


聖ヨハネ教会跡を出てすぐの所に、子供達の集まる小さな建物があった。
何だろう?
好奇心にまかせて中をのぞくと手招きをされた。

モスク


この建物の指導者(管理人?)の話を推測するに、どうやらここは町中にある小さな礼拝堂であるらしい。礼拝堂である以上は、イスラム教徒にとっての聖地であるメッカの方角を示す壁にある窪みである「ミフラプ(Mihrab)」があるはずだ。きょろきょろと室内を見渡すまでもなく、入口の正面中央にあった(扇風機が「いかにも使われている礼拝堂です」という雰囲気を醸しだしているなぁ)。

モスク


そして、当然のことながらイスラム教の聖典であるコーランもあった。
個人で所有しているコーランはいざ知らず、どんなに小さな礼拝堂でもイスラム指導者のいるところにはこのように文章の周りを美しく装飾したコーランが置かれているものらしい。アラビア文字は読めないものの、一冊手元に置きたくなってしまうほどだ。

モスク


この礼拝堂の指導者とおぼしき人の話が一通り終わったあと、最後に「もしよろしければ、幾何かの喜捨をお願いできませんか?」とひと言付えてきた。異教徒にとって滅多に入れないはずの今現在使われている礼拝堂に入れたこともあり、そしてずうずうしくも写真まで撮らせて下さったこともあり、10YTLほどの喜捨をして、この小さな礼拝堂を後にした。

モスク


ポエ爺の話によるとイスタンブールにある大きなモスクならばいざ知らず、地方の小さなモスクや礼拝堂はどこも財政のやりくりが大変なため、そこで一つの方法として異教徒が訪れた時に中へ入れて案内をし、寄付をもらうことによって財政の足しにしているのだとか。どこも懐具合は苦しいのだなぁと思いつつ、二人で10YTLは寄付として少なかったのか、はたまた適正な価格だったのだろうかと考えてしまうMyrthaであった。

どこをどう見ても南国に植えられているとしか思えない街路樹の木陰を歩きつつ坂道を下っていくと、イサベイ・ジャミィが姿を現した。

セルチュク


イサベイ・ジャミィ(İsabey Camii)は、1375年にダマスカス出身の建築家ディミシュクリ・アリによって建設されたモスクで、セルジューク朝からオスマン朝への過渡期の建築物として評価が高い。

イサ・ベイ・ジャミィ


中庭に入ると、様々なデザイン・大きさのムスリム達の卒塔婆が建てられ、折れかかったミナレットにはコウノトリが巣を作っていた。

イサ・ベイ・ジャミィ


「今日は休館日で中には入れないのかしら?」などと思いつつ、中庭の階段に腰掛けていると、鍵を持った男性が現れて礼拝堂の中に招き入れてくれた。
先ほどの喜捨により、アラーの霊験が顕れたのだろうか?

礼拝堂内部は思っていたよりも明るく、入口正面にはメッカの方角を示すミフラプとイスラム指導者が講話を述べる時に腰掛ける「説教壇」と呼ばれる階段が置かれていたが、残念なことに、私には、セルジューク時代の建築物と、オスマン時代の建築物の違いがよくわからなかった。

イサ・ベイ・ジャミィ


イサベイ・ジャミィを後にして真昼の日差しの下を歩いていると、立入禁止の柵の向こう側に、傾いた石の台座の上に、穴の空いたドームが乗せられた遺跡があった。
ポエ爺によると、あのドーム型の遺跡は昔使われていた風呂であるという。どのように使われていたのか詳細はわからないが、現在トルコで使われている風呂が日本のような湯浴み式風呂ではなく、スチーム式の蒸し風呂であることを考えれば、このオールド・ハマームも現代の蒸し風呂とそう大差ない使われかたをしていたのではないか、とのことである。

オールド・ハマム


この日は、明日の移動に備えるという意味も含め、アヤ・ソルクの城塞には行かず、ホメロス・ペンションにもどり、友人や家族への手紙を書いた。

夕刻、ワイングラスを片手にペンションの屋上へ上がり、セルチュク最後の日没を目にした。
市街地から背を向け、畑の広がる更にその先の山の端には赤々とした太陽が今にも姿を隠そうとしていた。

セルチュクの夕暮れ


「明日は順調にベルガマへたどり着けますように」
姿を隠しつつある太陽に、密かに祈るMyrthaであった   .


※トルコ旅行ひとくちメモ
セルチュク(Selçuk)はエフェソスの北東5kmに位置しており、かつてはギリシア語で「神学者ヨハネ」を表すアギオス・セオロゴス (Agios Theologos)と呼ばれていた。オスマン・トルコ支配下ではアヤソルク(Ayasluğ)と呼ばれていたが、1914年に12世紀にこの地を支配していたセルジューク・トルコにちなんで現在のセルチュクと改名された。ほとんどの観光客はエフェソス観光の拠点としてセルチュクに滞在しているが、セルチュクの歴史地区は保存状態が良く、開発も進んでいないため、伝統的なトルコの文化を保持している。

アナトリア旅游7・セルチュク篇(上)

7日目。
カナリアのさえずりのような声が耳に流れ込み、目が覚めた。
聞こえてくる透き通るようなソプラノの歌声の主はHomeros Pensionのシスター・オヤであるらしい。

身支度を整えてポエ爺と階上のテラスへ行くと朝食を出された。
そのメニューを見たとたん、私は少々不安になった。
「これは朝食だよね??」と。。。

Homeros朝食


見ての通り、果物ばかり!
例によってメニューを書き出してみよう。
ゆで卵・瓜系の果物・スイカ・オレンジ・バナナ・トマト・モモ・青リンゴ・チェリー・白ブドウ・人参・胡瓜・マーガリン・イチゴジャム・チーズ。そして左上のバスケットに入ったエキメックとチャイ。
皿の上に盛られた果物の山。山。山。
何かが何か、間違っているような気がしつつも、お腹いっぱいになるのだろうかと不安になりつつも、パクパクと果物を口に運んでいくと、果物の糖分故か、不思議とお腹がいっぱいになった。和食の朝食とは異なり、果物のやさしい甘さでお腹が満たされていくような感じだ。果物の朝食もよいかもしれないと、新しい発見をしたMyrthaであった。

今日は、アナトリア最大の古代都市遺跡・エフェソス遺跡群(Efes Harabesi)の見学に行くことになっている。シスター・オヤの弟君・ダルヴィッシュ氏に車でエフェソス遺跡群の入り口まで送ってもらい、入場料(10YTL)を支払い、いよいよ遺跡内部へ   .

南入口から中へ入り、オディオン(音楽堂)や上のアゴラ(公共建築が立ち並ぶ政治的な場所)を通過して、ヘラクレスの門とよばれる凱旋門からケルスス図書館付近までつづくメイン・ストリートのクレテス通りの入口手前の遺跡の上から通り全体を遠望すると   .

エフェソス遺跡群


入口付近にもかかわらず、かなりな人影が見られる。大丈夫かな?日本の美術館のように黒山の人だかりにより、遺跡が見えないということはないよね?少々心配になるMyrthaであった。

獅子の毛皮をまとうヘラクレスの彫像が施された凱旋門を通り過ぎ、1世紀に建造されたというメミウスの記念碑を通過した。この都市に貢献のあったとされるメミウスは高名なローマの独裁官スラの孫にあたる人物だという。

エフェソス遺跡群


ドミティアヌス神殿(エフェソスがローマ帝國と友好関係を維持するために暴君・ドミティアヌス帝に捧げた神殿)や水宮殿を通り過ぎると、観光客の群がる一角があり、覗いてみると、そこには勝利の女神・ニケの像があった。この像は写真で見る限りでは小さそうに思えるが、高さが70~80cmもある大きな石像だ。地面に置かれているこの石像は旧時、どのようなところに使われていたのだろうか?

エフェソス遺跡群


トラヤヌスの泉。
トラヤヌス帝(AD53~117)は古代ローマ帝政前期(プリンキパートゥス)の皇帝で、五賢帝の2番目にあたる人物だ。彼の時代に帝國版図は最大になり、最善の国家元首と謳われたという。そのトラヤヌス帝に捧げられた泉だ。(しかし人が多いなぁ…)

エフェソス遺跡群


ハドリアヌス神殿の正面入口。
ローマ帝国五賢帝の3番目にあたるハドリアヌス帝に捧げられたコリント式の神殿であり、女神ティケやメドゥーサの彫刻、その他にも神々や皇帝の姿を賑やかに彫りつけたレリーフが美しい神殿だ。
ハドリアヌス帝(AD76~138)はトラヤヌス帝の次に就任した皇帝で、トラヤヌス帝同様にパークス・ロマーナ(ローマの平和)の繁栄を現出した君主だ。帝國の拡大路線はとらなかったものの、2度にわたって広大な領土を巡回し、イギリス北部にはハドリアヌスの長城が残っているという。こちらもいずれは見てみたいものだ。(本当に人が多いなぁ…)

エフェソス遺跡群


高級住宅地の一角にある娼婦窟を見学し、水洗式公衆トイレも見学。
ローマの公衆トイレは和式のようにしゃがむ式ではなく、腰掛ける式のものだったようだ。写真を見る限りでは、衝立はなく、したがって個室にはなっていないようだが、音楽演奏もなされていたらしいので、皆で用を足しながらおおらかに語らい、音楽に耳を傾けていたのだろうか?

エフェソス遺跡群


ケルスス図書館入口。
アジア州総督ケルススを記念してその息子が2世紀に建立したという。前面がコリント式の柱を持つ華麗な作りで、正面向かって左から、英知・徳性・思慮・学術を表す女神の像が配置され、蔵書数12万冊を誇り、アレキサンドリアの図書館、ペルガモンの図書館と並ぶかつての世界三大図書館の一つに数えられていたが、ゴート人の襲撃によって焼失し、今はファザードが残されるのみ。4体の女神像は複製品が置かれ、観光客が共に写真を撮る場所となっていた。(写真右側は、マゼウスとミトリダテスの門)

エフェソス遺跡群


商店が建ち並び、活気あふれる庶民生活の場であった下アゴラの一角を見学し(立入禁止になっていた)

エフェソス遺跡群


港湾へつづく列柱回廊を見学。

エフェソス遺跡群


クレテス通りを右に曲がり、マーブル通りを通って野外劇場へ。
野外劇場は1~2世紀にピオンの丘(パナユル山)の斜面に築かれた収容人数24000人という大規模なものだ。貴賓席は残されていないものの、観客席の上からは今は埋まってしまった古代の港湾跡などが見渡せる。(時間が経つにつれて人が増えていますなぁ。。。)

エフェソス遺跡群


その他にも、体操場や入浴場、石棺を見学するも、転がっている石の数よりも観光客の方が多く、写真を撮っていると平気で前を過ぎられるのには弱った。「撮影している人の前は通らないように」ということに注意しているのは日本人くらいなのではあるまいか?

エフェソス遺跡群から小山を2つ3つ越えたところにあるビュルビュル山中には、聖母マリアがキリスト亡き後の晩年を過ごしたという「聖母マリアの家(Meryemana)」が残されており、今も敬虔なクリスチャンが訪れ、ミサが行われているという。行ってみたいとポエ爺に相談したところ、「また今度ね♪」とあっさりとかわされてしまったorz

エフェソス遺跡群を出て、セルチュクの町へ帰るために、てくてくと真昼の道を歩く。
路上に人はなく、時々、果物売りの自動車が止まっていたり、コイン売りの老人が木陰に腰掛けていたりする程度だ。ポエ爺の話によると、コイン売りというのは所謂ホームレス・乞食の類であるそうな。ただし、乞食にも乞食のプライドがあるらしく、ただで金品をもらおうとは考えず、年代物(の偽物)コインを売る代償としてお金をもらう、というスタイルをとっており、乞食もひとつの職業として成り立っているとのこと。

途中、身の丈よりも高い草の生い茂る一画があった。ふらりと立ち寄ってみると、そこにあったのは古めかしい一本の柱であった。

アルテミス神殿跡

この柱は古代世界の七不思議のひとつとして数えられる「アルテミス神殿」のものである。
アルテミス神殿は、紀元前6世紀頃のアケメネス朝ペルシア統治下で女神・アルテミスを祭るために建立された世界初の総大理石の神殿で、奥行き110m、幅55mの威容を誇り、127本の列柱がそびえ立ち、アテネのパルテノン神殿が内部に納まるほど巨大なものであったという。

紀元前356年、「自分の名を後世に残したい」と企んだヘラクレイトスという男の放火によって一度は消失したが、再建され、3世紀にゴート人の侵入によって破壊されてからは修復されずに荒れ果てたという。石材はほかの建築物を建てるために持ち運ばれ、現在は基礎部分が湿地帯に埋もれ、残された一本の柱の上にコウノトリが巣を作るばかりだ。
栄枯盛衰の儚さを垣間見たような気にさせられた。

アルテミス神殿跡

アルテミス神殿跡の後方に見えるのは、イサベイ・ジャミィと聖ヨハネ教会跡、セルジューク時代のアヤ・ソルクの城塞だという。明日はあの辺りを歩いてみようとポエ爺と話し合い、アルテミス神殿跡を後にした。

フト、今は昼の2時頃だろうかと時計に目をやると、16時を過ぎていた。少々遅い昼食であり、少々早い夕食でもあるが、食事にしようということでセルチュク市内のレストランに入った。

セルチュク食事

ガラスケースのテプシー(保温器)に料理の並べられているロカンタ(レストラン)で料理を指差して注文し、遺跡を見るのに夢中で食べ忘れていた食事をとることにした。
今回のメニューは、ピラフ・鶏肉とマッシュルームの煮物・トマトと青唐辛子・フライドポテト&フライド茄子のヨーグルトがけ・サラダ(ドレッシングはなく、レモン汁をかけて食べる)・Efesビール・エクメック・チャイだ。これだけたくさんの料理を食べて一人分の料金が14YTLであるから、物価が上昇しているとはいえ、地方都市はまだまだ安いといえるだろう。

ホメロス・ペンションに戻る途中、商店で水やワイン、クラッカーを購入し、オトガル(バス・ターミナル)の露店で白ブドウや桃を購入する。

セルチュク露店

露店には果物ばかりではなく、トマトや茄子、さまざまな形をした青唐辛子の類も売られている。

セルチュク露店


ペンションの部屋に戻り、1日の汗を流して屋上に上がると、星々が瞬いていた。先ほど買った白ブドウを食しつつ、ポエ爺と天体観測を楽しみ、さらに階下の中庭でチーズとワインを楽しんでいると、ダルヴィッシュ氏も姿を現し、共にワインを楽しむ。
傍らには上機嫌で詩を賦すポエ爺の姿があった   .


※トルコ旅行ひとくちメモ
トルコ共和国は政教分離を標榜する三権の分立した国家ではあるが、国民の9割以上はイスラム教スンニ派であるというイスラム教国である。しかしながらエーゲ海沿岸の旧イオニア地方の諸都市では少ないながらもキリスト教徒が存在している。特に聖母マリアが晩年を過ごした地域であるが故か、聖マリア信仰が根強く残っているのが特徴だ。Homeros Pensionの元気姐さんのオヤさんが「シスター・オヤ」と呼ばれているのもキリスト教徒であることに由来するようだ。

アナトリア旅游6・パムッカレ篇

夜の帷の下りる中、夢すら見ない深い眠りの中で、突然、肩を揺すられて目覚めさせられた。
寝ぼけ眼で窓の外を見ると、信号の明かりと、自動車のヘッドライトと街灯の明かりが視界に入ってきた。
長距離バスの添乗員が下りろと指さした。
次の目的地に着いたのだろう。慌ててバスを降りた。

6日目。
どうやら着いたのはパムッカレ(Pamukkale=「綿の城」の意)郊外のようだ。市内へ行くため、ミニバスに乗り換えた。
小さな旅行会社前で下ろされ(どうやらバス停も兼ねているらしい)、明るくなるのを待ちつつ、次の目的地であるセルチュク(Selçuk)へのバス乗車券を購入し、辺りが明るくなるのを待った。

am7:20頃。
旅行会社に荷物を置かせてもらい、世界遺産として知られている石灰棚の見物に行った。
入場料として5YTLを支払い、土足禁止とのことなので、水分を含んだ石灰の岩肌の丘陵地帯を素足でペタペタと歩く。途中、小砂利が足の裏のツボを刺激したり、体重をかけ過ぎたため少々痛い思いをしたりしつつ、ひたすら上り坂を歩く。

頂上まで登り切り、眼下を見下ろすとそこには一面に広がる石灰棚があり、その棚のくぼみには空の青さを反映させたかのような美しい色の水が滾々と湧き出ては、いなかった。。。

おかしい!

ポエ爺の方を向き、説明を求めると、「早朝だからまだ水がたまっていないのでは?」と、いともあっさりと言われてしまった。自然遺産として世界遺産に登録されている遺跡が、「早朝は水が溜まりません」などということがあるのだろうか?もしかして人工的に水量を調整しているのだろうか?(そんなことはないと思うけれど…)

石灰棚に水が溜まるまで今少しの時間がかかりそうなので、先にヒエラポリス(Hierapolis=「聖なる都市」の意)都市遺跡群を見ることにした。
まず初めに見たのは野外劇場だ。

ヒエラポリス・劇場

これは客席の一番上から舞台を見たところだ。舞台は一段高くなっているところではなく、最底辺の半円状(かまぼこ状)の所であり、その背後は舞台裏であり、布などで被われていたそうだ。

ヒエラポリス・劇場

この野外劇場は、2世紀のハドリアヌス帝の時に作られた客席数1万席もの大きな劇場だ。ファザードという建物正面のレリーフは豪奢な装飾が施され、皇帝のための大理石で被った貴賓席も残されており、保存状態はかなり良いようだ。
数年前までは遺跡の最下部まで下りられたそうだが、現在は遺跡保全のための囲いが施され、下まで下りられなくなっていた。仕方のないこととはいえ、少々残念な思いのするMyrthaであった。

つづいて、都市区画内の遺跡を見学。
この辺りは未だに発掘調査が続いているらしく、発掘作業&遺跡の修復にいそしむ人々がちらほら見られる。

ヒエラポリス都市遺跡群


不思議なことに、というよりもありがたいことに、一般の観光客が近くまで寄って発掘作業の様子を見学しても全く気にかけるふうでもなく、黙々と作業をこなし、時に笑顔まで返してくれるのだ。

ヒエラポリス都市遺跡群


メインストリートを通り、中央奥にあるビザンティン門を通り抜け、

ヒエラポリス都市遺跡群


ドミティアヌスの門(市北門)を抜けると・・・

ヒエラポリス都市遺跡


そこには死者の町・ネクロポリス(Necropolis)がある。

ヒエラポリス都市遺跡群・ネクロポリス


ネクロポリスはアナトリア最大規模の墓地であり、ヘレニズムからビザンティン時代のものまでおよそ1200基の墓があるという。切妻屋根のものやアーチ状のもの、円形古墳のものや2階建ての墓が地上に表出しており、さながら墓の博物館のようだ。

ヒエラポリス都市遺跡群・ネクロポリス


ヒエラポリスよりも広いのではないかと思われるネクロポリスを後にし、いよいよ石灰棚の見学をしにいくことになった。数時間の時が経ち、石灰棚はどのように変貌しているのだろうか?
まずは真上から見てみると、石灰だけあって岩肌が真っ白に覆われている。

パムッカレ石灰棚


そうして、そろりそろりと見下ろしてみると、そこは   
石灰の白い岩肌に縁取られた、触れれば壊れてしまいそうな繊細な水色の水があふれんばかりに湧き出ていた!

パムッカレ石灰棚

これは美しい青色だ。石灰の白とのコントラストが何とも美しい。
空の青さがくすんで見えるほどの透明感のある水の青さだ。
角度を変えてみてみるとこうなる。

パムッカレ石灰棚


つづいて少々わざとらしく夾竹桃を添えてみるとこうなるw

パムッカレ石灰棚


少々見にくいかも知れないが、これが石灰棚とヒエラポリス遺跡群の全景になる(地図画像をクリックしてみてね)。地図右下の緑色と石灰の白色の混じった辺りにある小屋が遺跡群への入り口となっている。

パムッカレ地図


自然美と都市遺跡とを堪能し、再び石灰の丘陵地帯を素足で歩き、町へ降りて一休みしていると、妻が日本人だというトルコ人が「我が店にご飯を食べに来ませんか?」と声をかけてきた。
時計を見ればちょうどお昼の時間でもあり、ありがたくお邪魔することにした。

パムッカレ・KALE OTEL RESTAURANTS

KALE OTEL RESTAURANTSではアダナ・ケバブ(挽肉と玉葱をこね固めて焼いたアダナ地方のスパイシーなつくね)とピラフ・サラダのセットと、飲み物としてアイラーン(トルコ風ヨーグルトドリンク)を注文した(案の定、トルコパンのエキメックは食べ放題だw)。
これだけたくさんのピラフがあるにもかかわらずパンが付くというのも奇異な感じがするが、日本では主食の米も、トルコでは野菜として扱われるので、彼らの主食であるパンは必ず付くのだ。

食後、夕方のバスまで時間もあることであり、早朝から動き回ったこともあり、しばしの休息も兼ねて石灰棚を目の前にしてみられる公園(地図でいうならば右下のあたり)へ行き、緑陰でごろりと一休み。仰向けになって寝そべっていると、目前には石灰の丘陵地帯(というよりも白い壁w)が広がり、その頂上では豆粒ほどの大きさにしか見えない人がかすかに動いているのが見て取れる。

フト、寝そべりつつ横を見ると犬も午睡を楽しんでいる。
このように日差しの強いところで寝るには、まずはその暑そうな気ぐるみを脱いだほうがよいのではないかと思ってしまうが、犬は人の気持ちなど関せず、ひたすら午睡を楽しんでいる。
横ではMyrthaとポエ爺も犬に負けまいと午睡を楽しむ。

パムッカレ・Dog


夕刻。
旅行会社に戻り、セルチュク行きのバスに乗る。
今回は短距離移動のため、大型のものではなく、マイクロバスサイズのものだ。
Busの内部はBathの如く暑し。こんな時は東洋の文明の利器・扇子が大いに役立つ。
パタパタと風を送りつつ蒸し暑さをやり過ごし、無謀にも博学なポエ爺相手に「地名しりとり」に挑む。勝負にならないことは初めからわかっていたので、こちらは常に○○共和国などと正式名称を用いつつ善戦するも、あえなく敗北(T_T)

4時間ほどバスに乗ったころだろうか?夕暮れの間近な目的地・セルチュクのオトガルに到着した。
オトガルからほど近くにあるHomeros Pensionに宿を決め、屋上で日没を観賞しつつワイングラスを傾ける。
カッパドキアでの照りつけるような日差しはなく、エーゲ海地方のただただ柔らかな湿度が人々を優しく包み込むかのようだ。この穏やかな気候の中で、明日はどのような珍道中がなされるのであろうか・・・?


※トルコ旅行ひとくちメモ
ヒエラポリスは紀元前190年、ペルガモン王国のエウメネス2世がローマとセレウコス朝との戦いでローマ側につき、戦勝の功労によってこの町を得て発展した。ペルガモンがローマに譲られてからも町は直轄統治領として大いに栄えたが、1世紀初めに大地震に見舞われた。復興の成った2~3世紀は黄金期であり、現在遺構の残っている大浴場や神殿はこの頃に建てられた物だという。
ビザンティン時代にはキリスト教の重要なセンターとなり、総主教座がおかれたが、町は緩やかに衰退していった。11世紀にトルコ人が進出してくると一帯は戦場となり、14世紀にはセルジュク・トルコの手に渡った。1354年、激震に襲われて人々は四散し、崩壊した町を復興しようとする者はなく、廃墟となった。現在目にすることの出来る遺跡はその頃とほとんど変わってないという。
1988年に自然と遺跡の複合遺産として、ユネスコの世界遺産に登録された。

アナトリア旅游5・カッパドキア編(下)

5日目。
昨日と同じメニューの朝食をとり(1ヶ月滞在しても毎日同じなのだろうか?)、食後、昨日お世話になったメフメット夫妻へのプレゼントとして、折り紙で「くす玉」を作る。
海外旅行の際、どうしても言葉のハンディキャップが生じるため、それを補うコミュニケーション・ツールとして「折り紙」を持っていくことにしているのだ。折り紙はいまや「Origami」として世界的にも知られているようであり、プレゼント用に自分で折ってよし、異国で知り合った友と一緒に折ってよしの便利なツールとして、大いにMyrthaを助けてくれるのだ。

am10:00頃。
Peri Hotelをチェックアウトし、ギョレメ村を散策することにした。
下記の写真が2泊3日お世話になった部屋の鍵なのだが、何とレトロな鍵であろう!まるで、いや、どう考えても漫画の中にだけ登場するような鍵だ!そしてこの鍵はMyrthaとポエ爺が別々の部屋に泊まっていたという動かぬ証拠でもあるのですゾ☆

periの鍵


Yama Tourのオフィスに荷物を置かせてもらい、ギョレメ村を逍遙。
そういえば、3日も滞在していながら一度も村の中を散策したことはなかったなぁ。。。

村の中を歩いてみると、観光地だけあって、レストランと土産物屋が多い。
トルコ絨毯やガラス食器、ナザール・ボンジュウをふくらませた風鈴のようなものもある。
土産物屋にふらりと足を運んではチャイをごちそうになりつつ世間話(?)をし、またふらりと別の店へ足を向け   .
土産物屋で客がお茶をごちそうになり、何も買わずにふらりと店を出てしまっても良いものだろうか…?などと不安に思ってしまうが、ポエ爺は別に気にする風でもなく、「ありがとう」と礼を言っては店を出て、店の主も別段嫌な顔をするふうでもない。せかせかした世界に住む人間としては不安になってしまうが、どうやらこれがこの村の日常のようでもある。ゆっくりとした時間の中で、せかせかせずにおおらかに、ゆったりと生活を送っているようだ。なんともうらやましい話ではないか。

ギョレメ村


トルコのレストランは屋外で食べる方が一般的で、どんなに小さなレストランでも必ずといって良いほど、店の外にテーブルと椅子が置かれている。

ギョレメ村


Yama Tourへ戻り、タウグ・ドネルサンドイッチ(鶏肉と野菜のサンドイッチ)をご馳走になり、Peri Hotelで朝食後に作ったくす玉をプレゼントしたり、しばしの歓談。
「これって、営業妨害じゃないのかなぁ・・・」などと心配しているのはどうやらMyrtha一人だけらしい。
ポエ爺はおろか、メフメットさんもマリコさんも慣れたもので、のんびりとお付き合い下さるのだ。

夕刻。
ポエ爺に誘われて、ギョレメ村のテペ(=丘)に向かう。
住宅街を抜けて坂道を登ることしばし。
目の前が開けたころ。
突然現れたのは、2日間見まわった、あのきのこ岩だった!

ギョレメ・テペ

すごい!
360度大パノラマのきのこの奇岩群にしばしば言葉を失った。
カメラに納められないのが何とも残念だが、それと同時に、360度の大パノラマを自由に見ることの出来る「人間の目」というものの偉大さを感じられずにはいられなかった。

ギョレメ・テペ


ギョレメ村へ目を向けると、そこは夕日を浴びて静かに夜のとばりを待つ村の姿があった。
自然と、人々の生活とが渾然一体となって存在する、不思議な空間だった。
そして、「来て良かった」と思えた瞬間でもあった。
この風景を目にすることが出来たのは、「ポエ爺あってのこと」といっても過言ではないのだ。

ギョレメ・テペ


テペの麓を見れば、そこには馬が飼われていた。
丘を下りて馬を間近で見てみたいが、そこまでの時間はなく、感動を胸にしたまま、静かにテペを下りた。

ギョレメ・テペ


Yama Tourに戻り、お世話になったメフメットさんやマリコ夫人に重ね重ねの礼を述べると、「またいらっしゃい。今度はとっておきの場所に案内するヨ」とのありがたい言葉をいただいた。是非ともまた訪れたいものだ。
ギョレメ村の中心にあるオトガル(バスターミナル)からSüha社の長距離バスに乗って、この、現実世界にあるとは思えない、どこか別世界のように感じられてならないカッパドキアの地を後にした。


※トルコ旅行ひとくちメモ
カッパドキアはとても広いので、観光する際には拠点となる町を決めると良い。たとえば、遠方からのバスの便の多いネヴィシェヒル、カイセリからのアクセスが多く、上級ホテルの多いユルギュップ、川のほとりの静かなアヴァノス、これらの町の中心にあるギョレメがよいだろう。
また、カッパドキアは見所も多いので、見学日程として、丸2日は当てたいところだ。

アナトリア旅游4・カッパドキア篇(中)

随分と時間がたってしまっていますが、アナトリア旅游の続きをば。
何年かかってもとりあえず書き終えますゾ☆


4日目。
窓から差し込む陽射しのやわらかさに、瞼の奥をくすぐられて目がさめた。

身支度を整えて中庭へ行くと、ぶどう棚の下の椅子に、ポエ爺が腰掛けていた。
ぼんやりと葡萄の木を見上げているさまはまるで・・・
詩でも作っているのかな?
ほうき星のように言葉が頭の中を駆け巡っているとなると、声をかけにくいなぁ・・・
などと思っていると、こちらの気配に気づいてくれた。どうやら、ぼんやりとしていただけのようだ^^;

トルコ・Peri-Hotel

Peri Hotelの朝食は野菜と果物が中心のコンチネンタル風のものだ。

トルコ・Peri朝食

写真の料理(?)を詳しく言うと、
右手前の丸皿が、トマト・胡瓜・白チーズ・黒オリーブの塩漬け・スイカ・バター・蜂蜜・チェリージャム・パイ生地にハッシュドポテトと粉チーズを包んで揚げたシガラ・ボレイ。
左側の皿が、玉子焼き(味付けは塩w)
奥にあるのがエクメック(トルコのパン。食べ放題だw)とエルマ・チャイ(トルコ風アップルティー)
ということになろうか?

食事を終えて、昨日に引き続きYAMA TOURにてカッパドキアの観光ツアーに参加。
今日はカッパドキア北部を観光する予定なのだ。

まずはじめにギョレメ野外博物館へ。
ギョレメ野外博物館には、5世紀から12世紀にかけて迫害から逃れて定住したキリスト教徒が作った30あまりの岩窟教会がある。この写真は修道女の共同住居とのことだが観光客との比較により、その大きさを思うことが出来よう。

トルコ・ギョレメ野外博物館


最初に入ったのがチャルクル・キリッセ。
チャルクルとはサンダルを、キリッセとは教会を意味する言葉らしい。岩の半ばに掘られた教会なので、観光用に架けられた階段を上って中に入るが、カッパドキアの強い日差しの中から教会内へ入ると、一瞬真っ暗で何も見えないかのような錯覚に陥る。それでも目が慣れてくると、キリストの生涯を描いたフレスコ画を見ることが出来るが、残念ながら保存状態がよいとはいえないようだ。

チャルクル教会

その他にもカランルク(暗闇)教会・ユランル(蛇)教会・エルマ(林檎)教会・聖バジル教会・食堂・倉庫などが残されているが、残念なことにいずれも写真撮影は禁止であった(もっとも、内部は薄暗いのできれいに写せたという保証もないわけですが…)
そんなときに便利なのがNTT出版から出版されているトルコの旅―歴史と生きる人と街という本だ。ギョレメ野外博物館も紹介されており、岩窟教会内のフレスコ画写真が鮮明に撮影されているので嬉しい一冊だ。

ギョレメ野外博物館を離れ、エセン・テペにてひと休み。
ここは、テペ(=丘)だけあって、周りの奇岩がよく見えるところだ。

エセン・テペ

一通り写真を撮り終えて周りに目を向けると、丘の上には土産物売りの店などもわずかながら建てられており、トルコの伸びるアイスクリーム・ドンドルマの屋台もあった。

ドンドルマ売り

暑いし、ドンドルマも興味あるし、食べてみようかしら?とドンドルマ売りの青年に「一つ下さいな」といったところ、本当にただでくれたのでびっくり。あのーお金払いますよ?「How Much?」をくりかえしても「No~!No~!」と繰り返すばかりなのでありがたく頂戴した。
2人のやりとりの一部始終をニヤニヤと楽しそうに眺めていたポエ爺に聞いてみたところ、「Myrthaちゃんが美人だからだよ♪」とのこと。
ホンマかいな・・・

オニキス工房にてオニキスの加工される様子を見学し、売り場へ行ってみると、ポエ爺が売り子の女性と楽しそうに話していた。何でもこの売り子さんはカイセリ大学で日本語を専攻し、ポエ爺はトルコ語と日本語を駆使して日本語を教えていたのだとか。トルコ萌えのポエ爺がトルコで日本語を教える日が来るかも知れないと、密かに思うMyrthaであった。

オニキス工房


オニキス工房の見学を終え、ウチュ・ヒッサールへ。
ウチュ・ヒッサールは「尖った塔」を意味する高さ80メートルもの巨大な岩だ。以前は上へ登れたそうだが、その昔、転落死した観光客がいたとかでそれ以後は中に入ることすら出来なくなってしまったという。
何とも残念な話だ。。。

ウチ・ヒッサール


ウチュ・ヒッサールを離れ、レストランでビュッフェ風の昼食をとり、近くを散策していると、すてきなオブジェ風の木があった。
これは、木に壺を差した物だろうか?

壺の木


そしてもう一つがこちら。
トルコの魔除けとして有名なナザール・ボンジュウが木の枝という枝に結ばれている!

ナザール・ボンジュウの木

よく見ると割れてしまっているナザール・ボンジュウもあり、一度に飾られた物ではないようだ。これは旅人が旅の安全を祈願して結んでいった物だろうか?オブジェとしては面白く美しいが、嫉妬の視線を跳ね返すという魔除けが何故このようなところに大量に結びつけられているのか、皆目見当も付かない。

バスに乗り、ユルギュップのスリーツリーを見学。

07_08_06スリー・ツリー

本来ならば、プロの写真家が写すように中央の奇岩が3つ並ぶ予定だったが、如何せん、角度が良くなかったのかスリーツリーではなく、ツーツリーにしか見えない絵になってしまった_| ̄|○
このスリーツリー、下の方から見上げるように眺めたかったなぁ。。。

そして、ゼルヴェ渓谷の入り口に当たるパシャバーウも見学。
ここはその昔、5世紀ころに聖シメオンが隠遁したところだ。残念ながらカメラの電池が無くなってしまった為、急遽、携帯電話のカメラで写真を撮った。
ささやかすぎる土産物ですが、下記の画像を希望される方はDLして壁紙としてご利用下さい。
(´-`).。oO(DLされる方は、ひとこと残していっていただけると嬉しいですネ♪ )

パシャバーウ奇岩パシャバーウ奇岩

因みにこの画像に見える地を這うようにして生えている植物は葡萄の木で、何でもこの地方は降水量が少ないため、幹を低くすることによって木々も脱水症状=枯死を防いでいるのだとか。
日本のように枝葉をのびのびと茂らせるというのは、木々にとっても贅沢なことなのかも知れない。

再びバスに乗り、トルコワインを試飲したり、アヴァノス陶芸工房にて轆轤を回して遊んだりしつつ、夕刻、ギョレメ村のYAMA TOURのオフィス前に帰着。
オーナーのメフメットさんが「やぁやぁ久しぶり!」とポエ爺と濃厚な再会の抱擁を交わしていた。
どうやらメフメットさんはポエ爺の友人にあたる人らしい。
「夕食を共にしませんか?」というメフメットさんの好意に甘え、一度ホテルへ戻り、身支度を調え、土産物として果物やトルコ名物のEFES Pilsen(エフェス・ビール)を手に、再度YAMA TOURを訪ねる。

温かく迎えてくれたのはメフメットさんとそのご夫人のマリコさん、生後10ヶ月の愛息子のジャン君の3名だ。
息子を将来大学へ進学させ、医者にしたいというメフメットさんはポエ爺とペルシャの詩人・ウマル・ハイヤームや近代トルコの詩人・ナジム・ヒクメットの詩論で盛り上がっている。ムツカシイ話についていけないMyrthaは、「歴史ばかり勉強してもダメだなぁ…」などと反省しつつ、ジャン君(漢字で書くならば聖君)をかまったり、マリコ夫人と話したり、美味しい食事をいただいたりしていた。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、宴はお開きとなった。
帰路、天を仰ぐと、星々が手を伸ばせば触れられそうな近さで瞬いていた。
かつて、これほどまでに北斗七星を間近に感じられたことがあっただろうか   


お世話になったYama Tourのサイトはこちら
Yama Tour日本語サイトはこちら


※トルコ旅行ひとくちメモ
ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群は、1985年にユネスコの世界遺産に「自然と文化の複合遺産」として加えられ、2005年の公式観光者数は、850,000人の外国人旅行者、そして約100万人のトルコ人旅行者が訪れているという。当然、日本のツアー旅行でも必ずといって良いほど加えられているところだ。個人旅行・団体旅行を問わず、トルコに行くならば一度は訪れるべし!
なほ、カッパドキアは「美しい馬のいる場所」を、ギョレメは「目に見えないもの」「隠れたるもの」を意味する言葉らしい。

アナトリア旅游3・カッパドキア篇(上)

気がついたら、ボスフォラス海峡を渡り終えて、バスは小アジアの大地を疾走していた。
数時間ごとに休憩があり、エコノミー症候群防止のために下車しては体を動かし、車中にありては夢うつつ。眠っては起き、起きては眠って、やがて夢と現実との境界線があやふやになっていった。

3日目   am5:30前。
何度目かの休憩の時、夢から現実へ戻ってきた。
バスを降りると、遠く、荒野の地平線がかすかに赤く色づいている。サービスエリアの周りには何もない。時折、自動車が通り過ぎるのみだ。静謐の中で、何年かぶりの日の入りを見た。
トルコ・日の出

荒野にあるサービスエリアといえども、飲み物や軽食・お菓子・ぬいぐるみ(かわいくないw)・土産物とさまざまなものが売られている。しかしながら、バスに戻ればチャイやコーヒーなどの飲み物、おやつが支給される。トイレ休憩のために下車する人がほとんどだ。
トルコ・サービスエリア

バスは再び走り出す。
アヴァノスに着き、ギョレメ村へ行くため、ミニバスに乗り換える。この辺りは、すでにカッパドキアなのだ。

カッパドキアは世界遺産にも登録され、トルコ観光の白眉とされるところだ。日本からの観光ツアーにも必ず入っているところだが、地図で確認すると「カッパドキア」という地名は掲載されていない。どうやら現在のカッパドキアというのは公式名称ではなく、奇岩の観光地一帯を指すようだ。
トルコ・地図

ギョレメ村に着き、宿泊先に荷物を置き、宿泊手続きを終えると観光ツアーに参加。
なんといっても、カッパドキアは広く見どころも多い。効率的に巨大キノコのような奇岩を見てまわるには、ツアーに参加するのがよい。

カッパドキア南部の観光で、最初に訪れたのはデリンクユ地下都市。
デリンクユ地下都市は、深さ85m、地下7層。収容人数5000人ともいわれ、ここから北へ10km程行ったところにあるカイマクル地下都市と共に規模の大きい地下都市だ。
細い階段を下り、薄暗い地下へ足を進めると、焼けるような太陽の照りつく地上と違って内部はひんやりと涼しい(冬は温かい、とは想像できませんなぁ。。。)
トルコ・地下都市

細い道、低い天井、薄暗い空間にもかかわらず、すたすたと歩を進められるのは、イスラム教圏ではめずらしくも石油産出に恵まれないこの国が、観光立国として地下都市内に電球を配線していればこそだろう。
しかし、一たび電気を消してしまえば、そこは漆黒の闇。昔のことであるから、ここに住んでいた人々は蝋燭などで足元を照らしていたのだろうが、それでは足元を照らすのが精いっぱいで、そろりそろりという、かなりゆっくりな歩き方にならざるをえない。
敵から身を守るためにせよ、人里離れたところで瞑想に耽るためにせよ、日常生活は大変だったろう。

また、ツルハシやノミで凝灰岩層を削り、厨房・貯蔵室・教会などの部屋を作り、空調装置まで作っているのには驚いた。
水は、水脈に達するまで凝灰岩層を掘りつづけた井戸水を使っていたという。
それ故にこの地下都市は「デリンクユ=深い井戸」と呼ばれるのだ。
トルコ・地下都市

下の写真は地下都市から地上の光を見たところ。
トルコ・地下都市
ずいぶんと深部まで下りたが、それでも観光客用に公開されているのは一部であり、いまだに調査が続いているという。そしてこの地下都市は、カイマクル地下都市とも続いている可能性があるらしい。今後の調査結果が楽しみだw

続いてデリンクユ地下都市から西へ30km程行ったところにあるウフララ渓谷を逍遥。
トルコ・IHALARA渓谷

谷底には乾季ゆえに水量が減っているものの、清流が流れ、小魚が夏の涼を楽しんでいる。
トルコ・IHALARA渓谷

ウフララ渓谷は断崖に挟まれた谷が10km以上も続くところだ。所々に修道士が隠遁生活をおくったという岩窟教会や住居跡が残っており、ビザンティン時代を偲ばせているものの・・・
トルコ・IHALARA渓谷

どこまで行っても両側は断崖絶壁の風景が続き(これはこれで見事な自然美なのですが^^;)、足を止めては野に咲く花や、樹下教会や絶壁に目をむけ、てくてくのろのろと散歩を楽しむ。
渓谷の一角に設けられたレストランで食事を取り、セリメ渓谷へ   .

ウフララ渓谷では谷間へ歩を進めたが、セリメ渓谷では急傾斜の崖の上へ歩を進める。
サンダルなどの軽装では足に優しくないので厚底の運動靴がよろい。セリメ渓谷は、その昔、ギリシア正教徒が隠遁・瞑想に耽るために住んだところだという。
トルコ・SERIME渓谷

セリメ渓谷よりウフララ渓谷を遠望。
トルコ・SERIME渓谷

セリメはかつてスターウォーズの舞台として使われたことがあるそうな。
映画自体をじっくりと見たことがないのでなんともいえないが、ここから見る景色はとても同じ地球上とは思えない、どこか別の世界なのではないかと思わずにはいられなかった。
ま、それ故に宇宙モノ映画の舞台に選ばれたのでしょうけれどw

Pigeon Valley(鳩の胸の渓谷)で奇岩を眺め、なだらかな波を描く岩々をRose Valley(薔薇の渓谷)より眺める。このゆるやかな波打つ岩々が数万年後には尖がったキノコの岩となるのだ。
ちょっと信じられないが、おそらく事実であろう。というのも、残念ながらそこまで長く生きていないので、確信を持って断定はできないのダ。。。
トルコ・ROSE-VALLEY

夕刻、ギョレメ村のPeri Hotelに戻り、ホテルの中庭にて果物を食しつつ、ポエ爺と談笑していると近づいてくる影がある。
オーナーのハリスさんだ。
各々自己紹介をし、ハリスさんも談笑に加わる。
手相占いをよくするというハリスさんによると、Myrthaは「とても優しい人」「一生独身か、1~2年の間に結婚し、子供をもうける」とのこと。

いやはや何ともナントモ・・・
これからの旅路、まだまだ波乱が起こりそうですなぁ。。。


※トルコ旅行ひとくちメモ
カッパドキアの景観が「キノコの奇岩」になったのは、6000万年前にタウロス山脈が隆起したことによるそうな。これによって、周辺の火山が噴火し、長期にわたって火山灰を堆積させ、やわらかい凝灰岩層となった。この凝灰岩層に流れこむ雨水や風雪が、摩訶不思議なキノコの岩々を作り出している。そして、この風化は現在進行中であり、Rose Valleyで見た風景も、やがては鋭くとがったキノコの奇岩になるというわけだ。
なお、ギョレメ村にはこの奇岩をくりぬいて作られた洞窟ホテル(プチ・ホテル)が多い。

アナトリア旅游2・イスタンブール篇

2日目。
旅の疲れを取るために朝寝坊を楽しみ、疲れもとれたところで本日の活動開始!

ホテルのチェックアウトを済ませ(だが荷物は置かせてもらい)、まずは旅の前半の予定だけでも決めておこうということで、旅行会社Magnificentを訪ねることにした。ポエ爺曰く「DoyDoy(ガイドブックにも載っている庶民的軽食店)の近くにあるから、帰りにそこで食事にしよう」

と・こ・ろ・が・・・

ありませんやん!
まさか廃業・・・?
ポエ爺の顔を見ると別段深刻そうな様子もなく、「また店を移動しちゃったのかな?」などといいつつ、Magnificentのあったところに新たに店舗を構えたらしい店主に「移動場所知らない?」などと聞いている。この人、呑気者なのか、大物なのか、うーん(-_-;)
どうやらMagnificentは過去にも2度ほど店舗移動を行なっているらしい。にしても、それでは旅行者は困るだろうに。一体何を考えているのだ?トルコ人…

フォーシーズンズホテルの近くにあるという旅行会社を訪ねるも、見つからない!
同じような道、ではなくて、文字通りホテル周辺の同じ道をぐるぐる歩き回り、それでもやっぱり見つからないので、路端で優雅にチャイ(トルコの紅茶)を楽しんでいる小父さんたちに聞くことにした。
すると・・・
数名の小父さんたちがどれどれと寄ってきて口々に話し始めたではありませんか。そして近場にいる小父さんたちの知り合いの小父さんにも声をかけて話し続けるではありませぬか!終いには「連絡先を知らないのか?」と、財布から携帯電話を取り出して電話をかけ始めたではありませんか!
うーん。トルコの携帯電話は財布に入るほど小さいのかぁ…ではなくって!
うわさには聞いていたが、なんて親切な人たちなのでしょう♡

重ね重ねの礼をいい、やっとのことでMagnificentを訪ねると、オーナーのニハット氏が「やぁやぁよく来たね!久しぶり!」と濃厚な出迎えをしてくれた。
行程のことはサッパリわからないので、すべてポエ爺におまかせ。Myrthaは出されたエルマ・チャイ(トルコ風アップルティー)をひたすら飲むw
このお茶、とても甘酸っぱくて美味しいのですわ!是非とも土産物としてチャイセット一式を買って帰りたいなぁ…などと思っているうちに今後数日間の予定が決まり、価格交渉も終わり、支払いも終わり、最近のトルコ事情も聞きだし、夕方にもう一度Magnificentを訪ねるということで、この少々困った、だが親切で日本人にとってはかなりありがたい(日本語が通じるのだw)旅行店を後にした。

朝起きてから何も食べていない中を歩き回り、お腹がすいた!空腹は最高級のソースなり!ということで、いよいよDoy Doyへ。
このDoy Doyなるレストラン、かつて肉の調理中に火事を起こし、再建後は「ケバブ(肉料理)焼いても店焼くな」をモットーにして商売に励んでいるのだとか。。。
Doy Doyの最上階に陣取り、マルマラ海(ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡の間にある海)を眺望しつつ、本場トルコで本場のケバブを味わう。
小鳥も訪れる都会の中の自然と共に食事。う~ん。贅沢だ。。。

トルコ・DoyDoy


お腹も満ち満ちて、夕方まで時間もあるので市内観光へ   .

スルタン・アフメット・ジャミィ(通称;ブルー・モスク)を参観し、後日参観すればいいやということで、アヤ・ソフィア公園よりアヤ・ソフィアを眺望する。
トルコ・アヤソフィア

日本では焼きとうもろこしの屋台は縁日での定番だが、トルコにもあり、今が旬らしくあちらこちらで見かける。日本と異なるのは、味付けされたスープの中に漬したトウモロコシを網焼きする、ということ(焼かないトウモロコシもあったw)
トルコ・屋台

カポカポカポ   .
聞きなれない音色に振り返ると馬車が停まっている。
21世紀の、EU加盟を目指す国の経済の中心地に馬車!物珍しく、思わず写真をぱしゃり☆
トルコ・馬車
などということをしていたら、ポエ爺とはぐれてしまった_| ̄|○
キョロキョロと目で探していると近づいてくる影がある。

「コンニチハ。ワタシ、ニホンゴ、ベンキョシテマス」
ふんふん。なるほどなるほど。などと大真面目に話を聞いていたら、どうやらナンパ男らしい。さっさと離れたいが難を逃れる場所を知らず。。。
「どーしよぉ~」などと心中で悲鳴をあげていると、少し離れたところでこちらを面白そうに眺めている人物がある。これ幸いに面白そうに眺めている人物の方へ歩を進める。
「ドーシテ?彼ヨリ、ワタシのほうが若イ~!」などと、これまたわけのわからぬことを言うナンパ男氏を振り切って難を逃れる。
まったくもってポエ爺もお人が悪い。楽しげに見ていないで助け舟の1艘や2艘も出してくれても良いものを   .

重厚な門構えのイスタンブール大学前(夏休み中で閉鎖されていた)を通り過ぎ、裏路地にある書店街を見学。何もトルコまで来て書店街へ行かなくとも・・・という声も聞こえてきそうだが、本の虫にとっては外国の書店が気になるのだよ♪

イスラム教徒にとっての聖典であるコーランの専門店を興味深く覗き・・・
(コーランというのは書道が発達した文字の一つで書かれているだけのことはあり、なかなか装飾的な文字の本でもあるのだよw)
トルコ・書店街1

紙や象牙などに猫の毛を用いた筆で描かれた細密画・ミニアチュールの店をひやかし・・・
(本当は欲しかったが分不相応というものだろう。。。)
トルコ・書店街2

この猫はトルコにいるからこそ、人間サマに食べられずに済んでいるのだろうなぁと思わずカメラを向けたら顔を背けられてしまったり・・・
(テレやさんなのね・・・^^;)
トルコ・書店街3ネコ


そうこうしているうちに、ムスル・チャルシュ(エジプシャン・バザール)にたどりついた。
ここはエジプトから輸入されたハーブや香辛料が売られていたので、ムスル(=エジプト)・チャルシュ(バザール)と呼ばれるようになり、香辛料が多く取り扱われていたことからヨーロッパ人は「スパイス・バザール」とも呼んだという。
イスタンブールで一番大きなバザールはカパル・チャルシュ(グランド・バザール)だが、カパル・チャルシュが観光客用の市場であるのに対して、ムスル・チャルシュは地元民も足を運ぶ庶民的なバザールだ。香辛料の他にチーズ・ナッツ・漬け物・ドライフルーツやお菓子などもお手ごろ価格で売られており、食いしん坊にはたまらない。

ドネル・ケバブ・サンドイッチ(肉を回転させて焼き、それを削ぎ落としてサラダと共にパンにはさんだトルコ風サンドイッチ)売りの小父さんはカメラを向けるとこころよく肉を削ぎ落とすポーズをとってくれたり
トルコ・ドネルケバブ

チーズ屋さんの小父さんはチーズを試食させてくれたり・・・サービス過剰ともいえる親切っぷりだ。
トルコ・チーズ


気がつけば夕刻。
少しばかり早いが、そろそろ夕飯を食べなければMagnificentへ行く時間になってしまう!
ということで、夕食を食べ、荷物を取りにホテルへ戻り、Magnificentへ。

Magnificentでまたまたエルマ・チャイをご馳走になっているとミニバスが停まった。
あれに乗れと指差され、運転手に荷物を預けて大人しく乗車すると、とたんに石畳のイスタンブールの街を疾走しだした。その揺れること揺れること。まるでDisney Seaのアトラクション「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー:クリスタルスカルの魔宮」のジープに乗っているような揺れ具合だ!

あちらこちらの旅行代理店や宿泊所前で停まり、そのたびに客を拾っては降ろしを繰り返し、1時間後にバスターミナルのオトガルに到着した。
ここで長距離夜行バスに乗り換え、いよいよ中央アナトリアへ出発だ!


※トルコ旅行ひとくちメモ
トルコでは鉄道よりもバスが発達しているので、移動にはこれを使うと便利だ。
街の中心地には「オトガル」と呼ばれるバスターミナルが存在し、このオトガルからトルコ国内のあらゆる地域へいけるといっても過言ではない(ちなみに大都市では、オトガルは郊外へ移転されている場合が多く、イスタンブールでは2箇所に分かれているので、旅行店でバスの予約を取る時にはそのあたりのことも確認しておこう!ミニバスがオトガルと町の中心を結んでくれているゾ☆)。
オトガルには売店・カフェ・荷物預かり所などがある場合もあるので、探検して見るのもいいだろう。トイレももちろんあるが、これは有料だ(0.5YTL=50クルシくらい)

余談だが、何故鉄道よりもバスが発達したのかというと、植民地時代の諸事情と、鉄道網の構築・維持などのコストよりもバスの方がローコストであるという事情もあるようだ。ちなみにこの「オトガル」というシステムはトルコのみならず、中東では主流なのだとか(ポエ爺談)

アナトリア旅游1・プレリュード篇

サテ、ワタクシMyrthaは8月にリュックサック1つを担いで、トルコ共和国を放浪して来たわけだが
「さっさと旅行記を書きなはれー!」という意見もちらほら聞こえてくるので、備忘録代りに、
徒然なるままに、記していこう。何といってもここは「チラシのウラ」なのだから♪

早朝、成田空港内で同行者(本名・雅号での表記は止められているので、ここでは便宜的に「ポエ爺(ぽえじい=Poetな爺さま)」と呼ぼうw)と落ちあい、そのまま大韓航空で韓国のインチョン国際空港を経由して一路トルコ共和国はイスタンブールのアタテュルク国際空港へ   .

今回、大韓航空を使った理由は「たまたま一番安かったから」という経済的理由なわけだが、成田からインチョンまで2時間半、インチョンからイスタンブールまでが12時間ほどだろうか?
「早朝に日本を発って夜にイスタンブールに着くなら、機内で寝なければ時差ボケはしないなw」などと呑気に考え、それを実行したおかげ(?)で時差ボケはまったくなかったのだが、一体この日は何時間起き続けたのだろうか?26時間?30時間??

日本時間2:00、現地時間20:00(時差はサマータイム導入につき6時間遅れナリ)。
アタテュルク国際空港に着き、空港内でとりあえず小額のドルを新トルコ・リラ(YTL)に両替する。
日本円から新トルコ・リラに両替も出来るが、レートがあまりよくない(そして両替できるところが限られている!)ので、ドルまたはユーロがおすすめ。もっとも、昨今のトルコ政府はEU加盟を目指しているので、ドルよりもユーロの方がレートは良いようダ。

アタテュルク空港から宿泊予定地へ(今回の旅は出たトコ勝負!ということで、宿の予約すら入れていないのダ。嗚呼どうなる?この旅。。。)
空港出口で、夕闇が美しい!などと空を眺めつつ旧市街のアクサライ行きのシャトルバスに乗る。

アクサライで降りた(降ろされた?)ものの、すでに街は日没直後の明るさも残されておらず、街燈と、商店の明かりと、自動車のヘッドライトと、人々のざわめきだけが頼り。
長旅の疲れもある。明日からの楽しみもある。ここは早く宿泊先で休みたい   ということで、重いリュックを担ぎ、黙々と歩く。歩く。歩く。
3kmくらい歩きつづけた頃。旧市街の中でもダウンタウンにあたる一角にある安宿(HOTEL EMEKという)に飛び込み、部屋を取り(もちろん部屋は別々ですゾw)この日は早々に就寝。

畸人ポエ爺と物好きMyrthaの珍道中。
明日からどのような珍騒動が起きることやら   .


※トルコ旅行ひとくちメモ
個人旅行として宿泊先を決めずに旅行をする場合、問題になるのが宿泊先だ。
ガイドブックなどで探してもいいが、観光案内所へ行くか街を歩きながら「Pension」「OTEL」などと書かれた看板を探すのもよい。
気になるところが見つかったら、まずは入ってみる。そして空室の有無、値段を聞き、部屋を見せてもらい、シャワーの水&お湯が出るかなどを確認してから借りるかやめるかを決めよう。この時、朝食や夕食などの食事の有無、チェックアウト時間も聞いておくとよい。

ちなみにトルコでの共通語はトルコ語だが、観光地では英語だけでも十分に通じたりする。もちろん、片言のトルコ語が話せれば、大歓迎されることまちがいなし!だけどネw
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