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君をのせて

久しぶりにニコニコ動画の「エレクト王子」を見てみたら…

「天空の城ラピュタ」を弾いてみた


どうやら2008年にUPされたものらしいですが、相変わらずすごいなぁと思ってしまいます。
思わず「ホンモノの曲をUpしてしまって問題ないの?」と思ってしまいますw
「ジャージで演奏」がトレードマークのようですが、何かいわれはあるのでしょうか?
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鯨頭鸛

今日も、ハシビロコウさんは超然と悟りを得た老禅僧の如く、たたずんでいらっしゃいました。

ハシビロコウ


そうしてMyrthaの元にはもう一羽のハシビロぬいぐるみが増えました。

ハシビロコウ


今では小さなハシビロさんと大きなハシビロさんがそろってMyrtha部屋に鎮座しております♪

ハシビロコウ


結論;
ハシビロさんは何回見てもMyrthaを失望させない!

秋のオフ会

こたつ原理主義者さんより「オフ会やろう~♪」と連絡が入りました。

決定事項は以下の通りです。

日 時:2009年9月24日
場 所:やきとり たがみ
集合場所:JR上野駅不忍池口改札(になるのかしら?)
集合時間:18:00

今現在の参加者;こたつ原理主義者さん,砂原さん,あづさちゃん,Myrtha

なお、秋のオフ会の幹事は砂原の姐さんなわけですが、お店の予約が取れなかった場合、
以下のようになるかも知れないとのことです。

場 所:奄美料理 まれまれ
集合場所:JR新宿駅東口改札
集合時間:18:00

参加を御希望される方は、この記事にレスをつけるか、こちらにコメントをお願いいたします。

みなさま奮って御参加下さいませm(_ _)m

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アナトリア旅游6・パムッカレ篇

夜の帷の下りる中、夢すら見ない深い眠りの中で、突然、肩を揺すられて目覚めさせられた。
寝ぼけ眼で窓の外を見ると、信号の明かりと、自動車のヘッドライトと街灯の明かりが視界に入ってきた。
長距離バスの添乗員が下りろと指さした。
次の目的地に着いたのだろう。慌ててバスを降りた。

6日目。
どうやら着いたのはパムッカレ(Pamukkale=「綿の城」の意)郊外のようだ。市内へ行くため、ミニバスに乗り換えた。
小さな旅行会社前で下ろされ(どうやらバス停も兼ねているらしい)、明るくなるのを待ちつつ、次の目的地であるセルチュク(Selçuk)へのバス乗車券を購入し、辺りが明るくなるのを待った。

am7:20頃。
旅行会社に荷物を置かせてもらい、世界遺産として知られている石灰棚の見物に行った。
入場料として5YTLを支払い、土足禁止とのことなので、水分を含んだ石灰の岩肌の丘陵地帯を素足でペタペタと歩く。途中、小砂利が足の裏のツボを刺激したり、体重をかけ過ぎたため少々痛い思いをしたりしつつ、ひたすら上り坂を歩く。

頂上まで登り切り、眼下を見下ろすとそこには一面に広がる石灰棚があり、その棚のくぼみには空の青さを反映させたかのような美しい色の水が滾々と湧き出ては、いなかった。。。

おかしい!

ポエ爺の方を向き、説明を求めると、「早朝だからまだ水がたまっていないのでは?」と、いともあっさりと言われてしまった。自然遺産として世界遺産に登録されている遺跡が、「早朝は水が溜まりません」などということがあるのだろうか?もしかして人工的に水量を調整しているのだろうか?(そんなことはないと思うけれど…)

石灰棚に水が溜まるまで今少しの時間がかかりそうなので、先にヒエラポリス(Hierapolis=「聖なる都市」の意)都市遺跡群を見ることにした。
まず初めに見たのは野外劇場だ。

ヒエラポリス・劇場

これは客席の一番上から舞台を見たところだ。舞台は一段高くなっているところではなく、最底辺の半円状(かまぼこ状)の所であり、その背後は舞台裏であり、布などで被われていたそうだ。

ヒエラポリス・劇場

この野外劇場は、2世紀のハドリアヌス帝の時に作られた客席数1万席もの大きな劇場だ。ファザードという建物正面のレリーフは豪奢な装飾が施され、皇帝のための大理石で被った貴賓席も残されており、保存状態はかなり良いようだ。
数年前までは遺跡の最下部まで下りられたそうだが、現在は遺跡保全のための囲いが施され、下まで下りられなくなっていた。仕方のないこととはいえ、少々残念な思いのするMyrthaであった。

つづいて、都市区画内の遺跡を見学。
この辺りは未だに発掘調査が続いているらしく、発掘作業&遺跡の修復にいそしむ人々がちらほら見られる。

ヒエラポリス都市遺跡群


不思議なことに、というよりもありがたいことに、一般の観光客が近くまで寄って発掘作業の様子を見学しても全く気にかけるふうでもなく、黙々と作業をこなし、時に笑顔まで返してくれるのだ。

ヒエラポリス都市遺跡群


メインストリートを通り、中央奥にあるビザンティン門を通り抜け、

ヒエラポリス都市遺跡群


ドミティアヌスの門(市北門)を抜けると・・・

ヒエラポリス都市遺跡


そこには死者の町・ネクロポリス(Necropolis)がある。

ヒエラポリス都市遺跡群・ネクロポリス


ネクロポリスはアナトリア最大規模の墓地であり、ヘレニズムからビザンティン時代のものまでおよそ1200基の墓があるという。切妻屋根のものやアーチ状のもの、円形古墳のものや2階建ての墓が地上に表出しており、さながら墓の博物館のようだ。

ヒエラポリス都市遺跡群・ネクロポリス


ヒエラポリスよりも広いのではないかと思われるネクロポリスを後にし、いよいよ石灰棚の見学をしにいくことになった。数時間の時が経ち、石灰棚はどのように変貌しているのだろうか?
まずは真上から見てみると、石灰だけあって岩肌が真っ白に覆われている。

パムッカレ石灰棚


そうして、そろりそろりと見下ろしてみると、そこは   
石灰の白い岩肌に縁取られた、触れれば壊れてしまいそうな繊細な水色の水があふれんばかりに湧き出ていた!

パムッカレ石灰棚

これは美しい青色だ。石灰の白とのコントラストが何とも美しい。
空の青さがくすんで見えるほどの透明感のある水の青さだ。
角度を変えてみてみるとこうなる。

パムッカレ石灰棚


つづいて少々わざとらしく夾竹桃を添えてみるとこうなるw

パムッカレ石灰棚


少々見にくいかも知れないが、これが石灰棚とヒエラポリス遺跡群の全景になる(地図画像をクリックしてみてね)。地図右下の緑色と石灰の白色の混じった辺りにある小屋が遺跡群への入り口となっている。

パムッカレ地図


自然美と都市遺跡とを堪能し、再び石灰の丘陵地帯を素足で歩き、町へ降りて一休みしていると、妻が日本人だというトルコ人が「我が店にご飯を食べに来ませんか?」と声をかけてきた。
時計を見ればちょうどお昼の時間でもあり、ありがたくお邪魔することにした。

パムッカレ・KALE OTEL RESTAURANTS

KALE OTEL RESTAURANTSではアダナ・ケバブ(挽肉と玉葱をこね固めて焼いたアダナ地方のスパイシーなつくね)とピラフ・サラダのセットと、飲み物としてアイラーン(トルコ風ヨーグルトドリンク)を注文した(案の定、トルコパンのエキメックは食べ放題だw)。
これだけたくさんのピラフがあるにもかかわらずパンが付くというのも奇異な感じがするが、日本では主食の米も、トルコでは野菜として扱われるので、彼らの主食であるパンは必ず付くのだ。

食後、夕方のバスまで時間もあることであり、早朝から動き回ったこともあり、しばしの休息も兼ねて石灰棚を目の前にしてみられる公園(地図でいうならば右下のあたり)へ行き、緑陰でごろりと一休み。仰向けになって寝そべっていると、目前には石灰の丘陵地帯(というよりも白い壁w)が広がり、その頂上では豆粒ほどの大きさにしか見えない人がかすかに動いているのが見て取れる。

フト、寝そべりつつ横を見ると犬も午睡を楽しんでいる。
このように日差しの強いところで寝るには、まずはその暑そうな気ぐるみを脱いだほうがよいのではないかと思ってしまうが、犬は人の気持ちなど関せず、ひたすら午睡を楽しんでいる。
横ではMyrthaとポエ爺も犬に負けまいと午睡を楽しむ。

パムッカレ・Dog


夕刻。
旅行会社に戻り、セルチュク行きのバスに乗る。
今回は短距離移動のため、大型のものではなく、マイクロバスサイズのものだ。
Busの内部はBathの如く暑し。こんな時は東洋の文明の利器・扇子が大いに役立つ。
パタパタと風を送りつつ蒸し暑さをやり過ごし、無謀にも博学なポエ爺相手に「地名しりとり」に挑む。勝負にならないことは初めからわかっていたので、こちらは常に○○共和国などと正式名称を用いつつ善戦するも、あえなく敗北(T_T)

4時間ほどバスに乗ったころだろうか?夕暮れの間近な目的地・セルチュクのオトガルに到着した。
オトガルからほど近くにあるHomeros Pensionに宿を決め、屋上で日没を観賞しつつワイングラスを傾ける。
カッパドキアでの照りつけるような日差しはなく、エーゲ海地方のただただ柔らかな湿度が人々を優しく包み込むかのようだ。この穏やかな気候の中で、明日はどのような珍道中がなされるのであろうか・・・?


※トルコ旅行ひとくちメモ
ヒエラポリスは紀元前190年、ペルガモン王国のエウメネス2世がローマとセレウコス朝との戦いでローマ側につき、戦勝の功労によってこの町を得て発展した。ペルガモンがローマに譲られてからも町は直轄統治領として大いに栄えたが、1世紀初めに大地震に見舞われた。復興の成った2~3世紀は黄金期であり、現在遺構の残っている大浴場や神殿はこの頃に建てられた物だという。
ビザンティン時代にはキリスト教の重要なセンターとなり、総主教座がおかれたが、町は緩やかに衰退していった。11世紀にトルコ人が進出してくると一帯は戦場となり、14世紀にはセルジュク・トルコの手に渡った。1354年、激震に襲われて人々は四散し、崩壊した町を復興しようとする者はなく、廃墟となった。現在目にすることの出来る遺跡はその頃とほとんど変わってないという。
1988年に自然と遺跡の複合遺産として、ユネスコの世界遺産に登録された。
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