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アナトリア旅游12・ベルガマ篇(下)

12日目。
昨日や一昨日とまったく同じようで微妙に異なるような気のする朝食を食べ、昨日行ったアスクレピオンから微かに見えた未発掘の遺跡を見に行ってみようと言うことになった。
宿泊施設のチェック・アウトは10:00だと思い込んでいるMyrthaは部屋の引き渡しの時間までに戻ってこられないであろうことを心配したが、ポエ爺はまったく気にせず、「GOBIバーバーはバスに乗る時刻まで居ていいって!」と暢気に構えている。友人待遇なのか、常連(?)待遇なのか、もはや考えるのもばかばかしくなってきた。
とりあえず、未発掘の遺跡を見に行こうではないか!

アスクレピオンから北の方を眺めた時に現れた未発掘の遺跡を尋ねてまずはメインストリートを北上し、アクロポリス方面へ歩く。そして、メインストリートの終わるあたりを左折してひたすら西に向かって歩く。住宅街に入って途中、道行く人が近づいてくると、ポエ爺は「気をつけて」と緊張した小声を発し、足早に通行人から遠ざかった。子供達は相変わらず「Money! Money!」と近づいて来ては大人の姿を見ると声を潜め、再び「Money! Money!」と言い続ける。無言のまま足早に子供達からも離れて遺跡を目指した。

住宅街をぬけて緩やかな斜面まで来ると、さすがに子供達もここまではついてこない。遠巻きにこちらを眺め、時折小石を投げてくる。「ケチな外人」とでも思っているのだろうか?
子供達の方を見つつ、ポエ爺に訊ねた。
「ああいったことを平気でやるのは教育や親の躾のせいかね?」
「それもあるし、あとは経済問題だね。このあたりは市内でも貧しい人が多い一角なんだ。女性が一人で来るところではないね」
恒産なき者は恒心なし、か・・・いずれ、教育問題に経済問題もからめて考えてみようかと思うMyrthaであった。

子供達に背を向けて緩やかな坂を下っていくと、そこには埋もれかけた遺跡が静かに佇んでいた。

水上競技場跡


入口とおぼしきアーチをくぐってみる。
未発掘の遺跡といえども、多少は修復されているようだが、いつ崩落するとも限らないのでおそるおそる足早にくぐった。

水上競技場跡


アーチをくぐったところで目線を下にやると、トンネル状のものがある。
埋もれたのか、もともとトンネルのように掘ったものなのか、見当もつかない。

水上競技場跡


遺跡からアクロポリスを遠望。
擂り鉢状の野外劇場と、トラヤヌス神殿が青空によく映える。

水上競技場跡


ふたたび遺跡に目を向けると、今度は三連のアーチが目に入った。

水上競技場跡


それほど大きな遺跡にも見えないが、やはり埋没しているのだろうか?

水上競技場跡


一通り見終わった後、ポエ爺に解説を求めると、この遺跡はローマ帝国時代の水上競技場跡であるらしい。
資金難なのか、発掘作業が行えずに放置状態になっている遺跡がベルガマ市内には多数あるという。「ボクに大金があれば発掘作業をするのになぁ。。。作業をする時には有能な現場監督者が必要で、この人がキチンとした人でないと発掘をする人が遺物を盗んでしまったりと大変なんだよ・・・」
ポエ爺は発掘作業に携わったことがあるのだろうか?

未発掘の遺跡改め、未発掘の水上競技場跡を後にしてもと来た道を足早に戻る。先ほど小石を投げてきた子供達の姿はすでになく、照りつける太陽の下で牛馬の糞の風化を待つ姿があるばかりだ。

突然、ポエ爺が声を上げた!
「もう一度アスクレピオンに行く!昨日フィルムが無くなって写真が撮れなかったから!」
そうなのだ。このデジカメ全盛期の時代にポエ爺はフィルムを入れて撮影する一眼レフを愛用しているのだ。何度も行っているはずなのにそのたびに写真撮影は必要なのかとなかば呆れつつも、アスクレピオンを再訪することにした。

入口の管理人は「二日続けてくるとは物好きな観光客だ」という心を隠さずにニヤニヤと笑いつつ中に入れてくれた。
喜々としてシャッター音をうならせるポエ爺を傍目に、近くの石に腰を下ろし、暑さをやり過ごした。日が中天に上る頃は本当に暑いのだ。

ひとしきりシャッターを切りつづけたポエ爺だがさすがに飽きたのか、撮るものがなくなったのか、満足そうな顔を向けてきたので、アスクレピオンを出て街へ戻ることにした。昨日は気づかなかったが、この近くには軍の施設があるようで、兵士の姿がちらほらと見られる。

街へ戻るとポエ爺が買い物をしたいといい、商店へ入ってしまった。しばらく待つと中から大きな袋を両手にして出てきた。普段買い物らしい買い物をしない人が珍しいと思って購入物品について訊ねると、「チャイ道具を一式買った」とのこと。つまり、日本酒を飲むおちょこにぴったりのチャイカップと、ソーサーと、ティースプーンと、チャイを湧かす二層式ヤカンを買ったというのだ。どうやらポエ爺は日本に帰ってもチャイを飲み、トルコに思いを馳せるつもりらしい。チャイの茶葉が無くなったら煎茶でチャイの雰囲気を味わうつもりだろうか?

Gobi Pensionに戻ると、いつの間にか私は「GOBIバーバーの娘」ということになっていた。トルコにお父さんの出来るのは素敵なことだが事情がよくわからず、またポエ爺に解説を求めた。それによると、何でもトルコ族というのは元々が遊牧民族であって、部族ごとでかたまって生活をしていた。そうすると、牧草を求めて移動している時に他の部族と遭遇することもあるが、そのたびに争いをしていては無益であるから衝突を避けるために義理の親子・兄弟関係を結ぶこともあった。これはその名残り、とのこと。

夕方になって、GOBI一家が「さよなら&また会いましょうパーティー」と称してトルコの伝統的な家庭料理を振る舞ってくれた。
(写真はポエ爺を囲むGOBI家の人々↓)

GOBI Pension


GOBI母の心のこもった手料理はとても美味しく、自分の胃袋の小ささが恨めしいほどだった。ポエ爺は自称3500歳という超高齢でありながらぱくぱくと料理を口に運び、舌鼓を打っているというのに!嗚呼、我が胃袋のなんと貧弱なことよ!
どのようなレシピなのかと思って、接待に忙しいGOBI母に代わってGOBIバーバーにメニューを書き出してもらったが、達筆すぎて解読不可能だった(T_T)しかしながら、野菜と羊肉のトマト煮、ピラフ、ヨーグルトの冷製サラダ、スープ、トルコ風ミルクプリン、エクメックであったのは間違いない。

名残の尽きない晩餐も終わり、荷造りをして、GOBIバーバーに「また遊びに来る」と約束をして、この温かい一家と別れ、オトガルへ急いだ。
21:20。
イスタンブールに向かって、バスは夜の街中を静かに走り出した。


※トルコ旅行ひとくちメモ
ベルガマ(Bergama。旧称:Pergamon)はトルコ共和国の西部、エーゲ海から約20km内陸に入ったところにある人口10万人程の地方都市で、現在はイズミール県に属している。イズミール市の北方約90kmに位置し、同市からバスに揺られること2時間程度で到着する。市域はバクル川(カイコス川)下流域の平原北部に展開し、煙草や無花果などの集散地であり、製綿業などの基本産業の他にアクロポリスやアスクレピオン、クズル・アウルなどの観光資源に恵まれた都市だ。海岸にむかって20分程度自動車を走らせると、ディキリという海水浴に適した保養地があり、彼方に浮かぶレスボス島を眺めることが出来る。
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アナトリア旅游11・ベルガマ篇(中)

「Günaydın!(ギュナイドゥン=おはよう)」
いつ頃からかはわからないが、ポエ爺をマネてGobi Pensionの中庭にいる客にトルコ語で挨拶をするようになっていた。他の外国人客は妙なアジア人が何かよくわからないことを言っていると思ったことだろう。

11日目。
昨日と変わらないエクメックとゆで玉子と果物とチャイの朝食を食べつつ、ポエ爺の行動予定を聞く。
曰く、「今日は昨日ダウンタウンの子供達が口々に言っていたアスクレピオン(Asklepieion)へ行こうと思うのだけれど、その前にイスタンブールへ戻るためのバスの乗車券を押さえようと思う」とのこと。
異論のないMyrthaは賛成し、食後のチャイを飲み干した。

Gobiペンションから目と鼻の先にあるオトガルへ行き、イスタンブール行きのバスの有無について尋ねると、明日の21:15発があるという。40YTLという金額に驚いていたポエ爺だが、大手バス会社METROであるならば、ある程度値の張るのも仕方がないだろう。その乗車券を購入し、ついでに郵便局へ行って書きためていた葉書を投函し、これまたついでに銀行へ行って多少の米ドルをトルコ紙幣に換金し、漸くアスクレピオンへ向かったのは真昼の頃だ。

確か、このあたりにあったはずなのだが   .
というポエ爺のあやふやな記憶を頼りに照りつける太陽の下を歩いていると、突然、列柱廊が見えてきた!

アスクレピオン


どうやらこれがアスクレピオンの入口の「聖なる参道」らしい。
この聖なる参道は、かつてはアクロポリスの裾から続いていたという。
入場料として10YTLを払い、中へ   .

アスクレピオンは医学の神アスクレピオスへの信仰を起源に持つ医療施設で、古代ギリシアのエピダウロスを発祥地とし、アテナイを始めとしてローマやコス島、クニドス島にも分祠されて同様の施設が出来たという。ペルガモンへの分祠は『ギリシア案内記』の著者にしてギリシアの旅行家、地理学者でもあるパウサニアスによれば紀元前4世紀頃とされているものの、現存する史跡はハドリアヌス帝(A.D.211~138在位)の頃のものが殆どだという。

入口の壁には「死は入るべからず」と彫られており、入院希望者はまずは医師の診察を受けねばならず、治療の見込みがなければ門内に立ち入ることは出来なかったという。そればかりか、入院してもなかなか治癒しない者を院外に追いだしたこともあったという。なぜならば、アスクレピオンの神域ではハデス(死者の国の神)の侵入を許すわけにはいかなかったからだ。

門前付近にある蛇と椀の柱石。

アスクレピオン


門前で入院を拒否された病人の中には悲嘆に暮れて椀に蛇の毒を入れて自棄飲みする者もいたという。幸いにもこの病人は死ぬどころか毒のショックで病気が治ってしまい、この施設の医学者であったガレノスは「毒も用い方次第で有効であると思っていたが、人体実験をするわけにはいかなかったのだ」と述懐し、この蛇を施設の象徴としたという。
蛇は脱皮を繰り返し、さらに暗い地中から這い出てくることから蘇生・再生・復活の象徴とも見なされていたという。現在のWHO(世界保健機構)のシンボルになっているのもこれによるとのこと。

聖なる地下道を通って治療棟へ   .

アスクレピオン


施設内にはいくつかの井戸や池泉があり、飲料や患者の水浴に使われていたらしい。そのうちの一つから水が引かれ、屋根で覆われ、換気・採光用の窓が12箇所穿たれている長さ80メートルの地下道の床下へと流されている。
聖泉で身を清めた患者は流れる水音を聞きつつ神妙な面持ちで地下道を通って治療棟へ向かったのであろう。

アスクレピオンの心臓部・治療棟へ   .

アスクレピオン


この治療棟はアスクレピオンの心臓部で診察は勿論のこと、医療研究も行われていたという。建築構造は直径26.5メートルの円形の二階建てで、全体は大理石で覆われ、周囲には水路がめぐっていたようだが、さすがに今は水跡すらなく、2階部分も崩落している。

アスクレピオン


治療棟での治療方法は、本体の円形に付属している6箇所の突起部分(アプシス)で行われ、夢占いや自己暗示による催眠療法を中心として、その他にも水浴や日光浴、観劇、軽度の運動、音楽鑑賞などのストレスを発散するリハビリ的なものを用いたという。また、医師は天井部分に残されている伝声管からまどろんでいる患者にむかって「アスクレピオスのお告げ」という形をとって言葉をささやきかけて治したと考えられている。

治療棟の隣にあるアスクレピオス神殿へ   .

アスクレピオン


前門の南に位置するこの神殿は施設全体の精神的支柱として存在し、直径24メートルほどの円形構造の内部にはアスクレピオス像が納められていたという。

廻廊を見学。

アスクレピオン


この南廻廊は2階建てのイオニア式列柱廻廊だったようだが2階部分は何も残されておらず、同様に西廻廊もわずかばかりの柱石が残る何もない状態だった。西廻廊のさらに西へ行ったところでは泥風呂療法が行われていたという。
因みに近年の調査で南廻廊と西廻廊の交わるあたりに二棟の遺構が発見され、これらが男女別のトイレであることがわかったという。内部は大理石製とのことだが、「トイレを大理石で・・・」と考えてしまうのは現代人的発想で、古代人にとっては「アタリマエのもの」だったのだろう。

アスクレピオン廻廊よりアクロポリスを遠望。

アスクレピオン


オデオンへ   .

アスクレピオン


オデオンとは小劇場のことで、収容人数は3500人とアクロポリスの劇場に比べれば小規模だが、客席層は同じように3層で、大理石製の貴賓席もあった。ここでは詩歌の朗読会や音楽会などの催し物を鑑賞することによって憂鬱な気分を払い、平癒を促進する狙いがあったという。
ポエ爺曰く、「そういった意味ではトイレが肉体的排泄行為をするところならば、ここは精神的排泄行為をする場所だね。人間の一生は食べ物であれ、カネであれ、ストレスであれ、所詮は出し入れの生涯だよ♪」
・・・ポエ爺よ。さきほどのトイレ跡を見て妙な悟りを開いたのか?(-_-;)

オデオンを上ると数本の松の木が空にむかって聳え、その根元には平たい石が置かれている。まるで天然のテーブルのようだ。丁度良いとばかりにGobiペンションの冷蔵庫で冷やしておいた白ブドウを食べて水分と糖分を補給し、石のテーブルにごろりと横になる。松風がさやとそそぎ、昼間の暑さを和らげてくれる。世界中ではビジネスマンがあくせくと働いているであろうに、何と贅沢なひとときだろうか!

オデオンを下りて北廻廊を見学。

アスクレピオン


北廻廊は他の廻廊よりも保存状態が良く、イオニア式の柱石が残されている。面白いのは写真右側にある数本の柱石がコリント式に変わっていることだ。これは、本来はイオニア式の柱石であったものが、紀元175年のアナトリア西部大地震によって倒壊し、当時の統治者であったローマ人が自分達好みのコリント式にかえてしまったことによるらしい。

そしてこの廻廊には土が敷かれてあり、患者はその上を裸足で歩いて鬱屈した気分を晴らしたとのこと。泥風呂療法といい、裸足療法といい、どれも古代人が開発していたとは驚くばかりだ。現代人も靴ばかり履いていないで、時には泥んこになって遊んだり、裸足になって歩くということが必要なのだろうか?

古代の診療施設に別れを告げて、白ブドウやチーズなどの買い物をしつつGobiペンションに戻ると、Gobiバーバーが「あそこのアイスクリーム屋は美味しいよ」とペンションのはす向かいにあるアイスクリーム・ショップを紹介してくれた。

ベルガマ・アイスクリーム屋


さっそくROMAアイスクリーム屋へ行ってみた。アイスクリームの入れられた冷凍庫は日本のものとあまり変わらないデザインなので中身はよく見える。見えるのだが・・・色とりどりのアイスクリームといえども何の味なのか見当もつかない。おまけに親切な店員さんが一々説明してくれるものの、結局さっぱりわからない・・・ということで、4盛り選んで良いといわれたので適当に黄色、オレンジ色、赤色、薄い若草色を選んだ。
三角コーンに山と盛られたアイスクリーム。そしてその上にはナッツを砕いたようなものをトッピングしてくれた。味は、黄色がレモン、オレンジ色がオレンジ、薄い若草色はピスタチオであるらしい。赤色は・・・チェリーだろうか?写真を撮ったら近すぎたのかピンボケしてしまい、Upできず。残念。。。

夕飯はGobiペンションの隣にあるKERVAN PIDE ve ÇORBA SALONUへピザを食べに行った。

ベルガマ・ピザ屋


ピザというと即座にイタリアを連想してしまうが、トルコにもピデという舟形をしたトルコ風ピザがあるのだ。
とりあえず挽肉とチーズのピデを注文してみたが、あまりの量の多さにびっくり!これで5YTLはかなりお得な気がするゾ。
腹もふくれてGobiペンションの一室に戻り、ごろりと横になって物思いに耽る。帰国の日が刻々と迫っているのだ   .


※トルコ旅行ひとくち5くちメモ
ペルガモン王国はアレクサンドロス大王の没後(B.C.323)、アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトというヘレニズム世界で離合集散を繰り返す中で、その間隙を縫うようにして紀元前3世紀に成立した。当時、南西アナトリアを領有していたリシマコスはペルガモンのもつ地理的重要性を見抜き、ここに軍事拠点を置き、武将のフィレタイロスに管理を任せた。リシマコスがセレウコス朝シリアとの抗争で戦死すると、フィレタイロスが継承し、ペルガモンの創世につとめたが、嫡子のないフィレタイロスは甥のエウメネス(エウメネス1世)を後継者とした。
エウメネス1世(EumenesⅠ B.C.263~B.C.241在位)は、外交上対立関係にあった大国セレウコス朝シリアをB.C.261年にサルディス平原での戦いで撃破し、暫定的に問題を解決したが、隣接する剽悍な民族であるガラティア人との対立は貢納品を贈るという消極策を取らざるを得なかった。しかしながらその間にアクロポリスの改造や新城増築などのペルガモン王国の基礎作りを行った。
先王の嫡男がアッタロス1世(AttalosⅠ B.C.241~B.C.197在位)として即位すると、ガラティア人に対する貢納政策を止めたために攻防戦が繰り広げられ、領内に侵攻される事態に発展したが、遂にガラティア人を撃退し、住民から「ソテル(救済者)」と称された。さらにマルマラ海沿岸にまで領土を拡張し、マケドニアや西方ローマとも友好関係を結び、黄金時代幕開けの準備役をはたした。
エウメネス2世(EumenesⅡ B.C.197~B.C.159在位)が即位すると、基本的には先王アッタロス1世の方針を受け継ぎ、対ガラティア人問題や対シリア問題もペルガモンの優勢を保ち、ローマとの友好関係も利用しつつカッパドキアまで領土を拡張し、政治・外交・軍事各方面に成功を収めた。また、哲学・数学・天文学などの学問や、建築・機械・造船・皮革加工技術・彫刻などの文化事業も盛んになり、ペルガモン王国最大の繁栄期を迎えた。現在のアクロポリスで見受けられる遺跡群の殆どがこの時代のものである。
先王の弟であるアッタロス2世(AttalosⅡ B.C.159~B.c.138在位)は「フィラデルフォス(兄思いの)」という異名があり、即位以後もその政策継承を忠実に行っていた。エフェソス港の改修工事や公共事業も行われ、その繁栄の余光を帯びている中で隣国との国境紛争をローマが仲介するなど、次第にローマの影響が忍びよって来た時期でもあった。
甥のアッタロス3世(AttalosⅢ B.C.138~B.C.133在位)は即位しても忍びよるローマの影も王国衰亡の兆しにも気づかず、政治は側近に任せたまま、自分は薬草研究のために庭に薬草畑を作ったり、優秀な人物を殺害してその財産を奪ったりしていた。最愛の母や妻が他界すると生きる気力を失ったのか間もなく他界した。遺言により王国の全領土はローマに委譲された。ローマはペルガモンを自由都市とし、以後も繁栄は続いたが、7世紀のアラブ人の侵略によって町は疲弊した。復興は14世紀のセルジュク勢力の時であるという。
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