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アナトリア旅游16・後日談篇

数日後、ポエ爺からの手紙が届いた。
日付を見ると8月11日とあり、どうやら旅行中に書かれたものらしい。
特に長々とした文章は書かれておらず、漢詩が一首だけ書かれていた。


       客 中 即 事              旅先での即興

   千 山 萬 水 白 雲 程    千山 万水 白雲の程(てい=みち)

   客 旅 應 牽 遊 子 情    客旅 応(まさ)に牽(ひ)くべし 遊子(ゆうし)の情

   探 興 東 西 南 北 路    興を探る 東西南北の路(みち)

   年 年 連 轡 共 君 行    年年 轡(くつわ)を連ねて君と共に行かん


詩の大意は、「良い旅行だったね。また一緒に旅に出よう!」ということになろうか。
こちらこそ、ポエ爺あってこその、良い旅でした(-人-)
Teşekkür ederim!(テッシェキュル・エデリム,ありがとうの意)


※トルコ旅行ひとくちメモ
海外からパソコンを使ってメール送信などの文字入力をするときに問題になるのが日本語の文字変換だ。適当に日本語サイトにアクセスしてコピー&ペーストによって入力するという方法もあるが、下記のサイトを使ってみるという方法もある。
Ajax IME: Web-based Japanese Input Method
Ajax を使った手書き文字認識
Sumibi.org ローマ字を日本語に変換できる無料サイト
また、可能ならばパソコンに日本語入力可能な方法を教えるという方法ある。それはwindowsXPの場合、以下の設定で出来るハズだ。
・「コントロールパネル」→「地域と言語のオプション」→「詳細設定」→「使うUnicode対応でないプログラムの言語バージョンに一致する言語云々」→「日本語に指定」→(「10001(MAC - 日本語)」「20290(IBM EBCDIC - 日本語 カタカナ拡張)」 にチェック)→「適用」→「OK」
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アナトリア旅游15・エピローグ篇

15日目。
HOTEL AKÇINAREmek Hotelに比べると幾分新しいホテルなのか部屋もきれいで、嬉しいことに小さいながらもシャワールームとトイレが分かれていた。それともEmek Hotelはバックパッカー向けのホテルというだけのことだろうか?しかしながら朝食が「エクメック、チーズ、ゆで玉子、オリーブ、サラダ、チャイ」というコンチネンタル・スタイルであることはどこのホテルもそう大差ない。トルコの一般家庭でも毎朝このような朝食を食べているのか、それとも「伝統的な朝食」があるのかはナゾだ。

am10:27
ホテルのチェックアウトをし、けれども相変わらず荷物はフロントに預け、ついでに先日依頼した空港行きのシャトルバスの手配を確認して街へ出る。
夕方までにホテルに戻らなければ帰国できなくなってしまうのだ。今日は慌ただしい一日になりそうだ。

イスタンブール市内のバス停を横目に過ぎり、銀行へ米ドルを両替しに行く。
イスタンブール市内を走るバスのバス停はオトガルのようなバスステーションとは異なり、日本のバス停とはあまり変わらない。とはいっても日本ではこのようにバスが密集したバス停というのは駅前にある程度だが、ここはトルコだ。目の前に電車の姿はないw

イスタンブール市内


ひとまず買い物のメッカ(?)カパル・チャルシュことグランド・バザールへ   .

グランド・バザール


旅行者が「グランド・バザール」と呼ぶカパル・チャルシュ(Kapalı Çarşı)は、メフメット2世の時にイチ・ベデステン(İç Bedesten)とサンダル・ベズステン(Sandal Bedesten)の2つの市場が作られ、その周辺に商館が作られていったのが始まりだ。時代と共に規模が大きくなり、複雑な大バザールに変貌したのだとか。古くは奴隷の取引も行われていたらしいが、現在は専ら土産物屋群となっている。広さとしては東京ドーム3分の2ほどで、金・宝石、絨毯、衣類・革製品、アンティーク、雑貨などと大まかなブロックに分かれているらしいが、あまりにも広すぎて、そして迷路のように入り組んでいるのでさっぱり見当がつかない。しかも観光客が大挙して押し寄せてくるので落ち着いて商品を見るのが難しい・・・グランド・バザールでの買い物を諦めたMyrthaは早々にムスル・チャルシュに向かうのであった・・・

途中でみかけた日本ではもう見られない懐かしき看板。

Vodafone


エジプシャン・バザールことムスル・チャルシュ(Mısır Çarşısı)は、カシム・アーという人物が作り始めたが途中で中断されたものの、イエニ・ジャミィを作ったムスタファ・アーが1660年に完成させ、1943年の大改造で現在のような屋根付きのバザールになったという。元来はイエニ・ジャミィを維持するために建設されたのだとか。イエニ・ジャミィ建設に取り組んだ人々を対象にした露店がきっかけで出来たのだろうか?ここではエジプトのカイロから輸入された香辛料やハーブを主に扱っていたためにヨーロッパ人から「スパイス・バザール」とも呼ばれた。

ムスル・チャルシュ内には香辛料の他にチーズやナッツ、ドライフルーツ、菓子類、チャイなどの食品や小物などの生活感あふれる物がそろっている。グランド・バザールが観光地化された市場なら、こちらのエジプシャン・バザールは地元の人も訪れる市場といえる。きょろきょろと辺りを見てはふらりと店に入り、これはという物があればすぐさま購入する。とはいっても、荷物のカサと相談して買わねばならないのでそうそう簡単ではない。が、ここまで長期に亘る休暇をくれた上司を始めとする職場の人に感謝と留守中御迷惑おかけしましたというお詫びの気持ちを兼ねて何か買っていかねば・・・と考えてしまうのは恐らく私が日本人だからだろう。そんなわけでエジプシャン・バザール内では写真どころではなかったのだ。
「今度トルコに行くことがあったらば、ゆっくりバザール内の写真を撮ろう!」と思うMyrthaであった。

とりあえず購入した物は、ロクム(トルコ版ゆべしのような菓子)、ナザール・ボンジュウ(トルコのお守りの目玉)、エルマ・チャイ(トルコ版アップル・ティー)などなどなど。。。おっと、旅の記念にトルコ石のネックレスも購入しましたゾ。路上に落ちている石を拾っては、「はい、トルコ石♪」などと言ってくるポエ爺は無視して宝石店の店主と電卓を叩き合って価格交渉をするのだ。その間にチャイが振る舞われるのはいうまでもない。

一通り買い物をすませてすぐ隣にあるイエニ・ジャミィでひと休みする。

イエニ・ジャミィ


イエニ・ジャミィ(Yeni Camii)は新市街からバスなどによってガラタ橋を渡ってきた観光客が真っ先に目にする、人目に付きやすいが素通りされるモスクなのではあるまいか?
イエニとはトルコ語で「新しい」を意味する言葉で、イエニ・ジャミィとは「新しいモスク」ということになる。何でも大規模な古典的モスクとしてはこれが最も新しいのだとか。別名を「ヴァーリデ・モスク」という。「ヴァーリデ(Valide)」とは「皇帝の母」を意味する言葉であり、このモスクはその名の通りメフメット3世の母サフィエ・ハトゥンの発願により造営が開始されたという。サフィエ・ハトゥンはスレイマン大帝の孫のムラト3世の妃にあたり、夫の死後に造営を開始されたので皇帝の母になるというわけだ。

「なるほどね」などと納得していたら、完成までにもう少し複雑な事情があったらしい。
何でもサフィエの子のメフメット3世が1603年に他界し、孫のアフメット1世の時代になるとサフィエはハーレムを追われてしまい、工事が中断してしまったのだ。それから半世紀以上たった1660年にイブラヒム1世の妃で時の皇帝メフメット4世の母であったトゥルハンがモスク造営事業の継続を思い立ったという。工事を継続した人も皇帝の母であったので「帝母のモスク」というのだとか。落成は1661年から1663年にかけてといわれているが、現在は中庭や付属の建造物は失われてしまっているので観光コースからは外されてしまっているようだ。ここは地元の人々のためのモスクといえるだろう。

シャドルワンの近くにいたムスリムの女性。

イエニ・ジャミィ


宗教に寛容なトルコはムスリムの女性に「チャドル」と呼ばれる女性が外出の時に身に着けてきた体全体を覆う伝統的な黒系の衣装を強制しないが、イスタンブールの街中を歩いているとちらほらと見かけた。ポエ爺の話によると、数年前までは田舎で見かけることはあっても、イスタンブールのような都市部で見かけることはなかったという。政権分離を徹底させているトルコも年々イスラム色が強くなっているようだと憂慮するポエ爺であった。この国はアタテュルクの方針によって政教分離を徹底させてきたが、時の政権が宗教色を強めるとアタテュルクの後継者を自負する軍部が動き出すというのだ。他国のことはその国の人々が決めればよいとはいえ、お互いのためにも平和であってほしいと思うのであった。

手頃なファストフード屋で遅い昼食兼早めの夕食を済ませてホテルへ戻る。
購入した土産物をリュックサックにしまい、ホテル側の手配してくれたPick Up式のシャトルバスに乗り、小一時間ほど揺られているとアタテュルク国際空港に着いた。出国は驚くほどスムーズに、そしてあくまでもファジーに済み、21:45に無事KE956便はソウルに向かって離陸した。

さようなら、トルコ。
窓の外へ目をやると、天上の星と地上の星が飛行機を包み込むようにして瞬いていた。
星々に包まれながら、飛行機は静かに黒海へ進路を取っていった   .


※トルコ旅行ひとくちメモ
飛行機はこの後、ひたすら進路を東に取って進んでいった。夜食としてビビンバやわかめスープ、キュウリのキムチが出された後、食事が終わると機内は消灯時間となり、ひたすら眠り続ける状態に突入した。時折、窓の外を眺めると荒涼とした土地に太陽がさんさんと照りつけている。
am5:30。
朝食としてお粥やキムチが出され、7:36(現地時間13:36)に無事にソウルへ着いた。少々待ち時間が長いような気もするが、成田行きの便に乗って無事に帰国できた。飛行情報を告げる地図にあまりにも小さすぎるが故に記入する必要のない(と思われる)竹島のことを「ドクト」と書いてある辺りは「流石は韓国」といったところだろうか。帰国するのに2日を要したが、機内で眠っていたせいか、復路も往路と共に時差ぼけはせずにすんだ。

アナトリア旅游14・イスタンブール再び篇(下)

14日目。
朝早く   とはいってもビジネスマンはとっくに働きに出ている時間だが   折角なので他のホテルにも泊まってみよう!ということで、Emek Hotelを出てHOTEL AKÇINARへ引っ越しをしてからガラタ橋界隈名物のサバサンドを食べに行く。

サバサンドは三枚おろしにしたサバに塩胡椒をふって鉄板焼きにしたものをレタスやトマト、玉ねぎと一緒にエキメックに挟み、レモン汁をかけたシンプルなサンドイッチだ。以前は釣ったサバを船上で調理・販売していたが、衛生面などの理由により規制されてしまい、現在は船上販売は観光用としてわずかに残っているのみで、店舗で売られていることが多いようだ。
「三枚おろしにした魚といえば網焼き」と考えてしまうのが日本人だが、こうして塩胡椒を振って鉄板焼きにしたサバもなかなか美味しい。味はサバというよりもアジに近いような気もするが、そんなことは気にもかけずにこの美味なるサンドイッチをほおばっていたら、写真を取り忘れてしまった_| ̄|○

そのような訳で、どのような食べ物下記になる方は、現地に飛ぶか、ガイドブックを見に書店へ行くか、Magic氏のトルコ旅行記7-1 サバサンドを読むかをして下さい。
Magic氏は2009年の冬にトルコへ行かれたようで、ご自身のBlog「三度目の世界征服」でトルコ旅行についてを書かれているのだ。Myrthaの旅行期間とは対照的な季節のトルコを写真で見られるのでなかなか興味深いものがありますゾ。
因みにサバサンドは飲み物付きで3YTLナリ。

腹も満ち満ちたところでガラタ橋を渡って新市街へ   .
新市街のシシャネからレトロな路面電車に乗り、終点のタクシム広場(Taksim Meydanı)へ向かう。

タムシム広場


タクシムとはアラビア語で「分割・分配」を意味し、オスマン帝国時代に都市の各方面に水を送る分水設備があったことに由来するそうな。現在は広場中央に1928年に完成した共和国記念碑が建ち、トルコの近代化を推進した共和国初代大統領ケマル・アタチュルクの銅像がある。ここから南西方向に向かって歩くとイスティクラル通り(İstiklâl Caddesi)がある。

イスティクラル通り


イスティクラル通りはイスタンブールきっての繁華街で、ブランド・ショップやブティック、カフェ、各国領事館などが建ち並び、歩行者天国になっている通りを先ほど乗っていた路面電車が通り過ぎていく。買い物好きな女性はもちろんのこと、ウィンドウ・ショッピングだけでも楽しい一角だ。買い物に無関心なポエ爺は・・・あえて語るまいw

イスティクラル通りを南下してアタテュルク橋を渡り、ヴァレンス水道橋(Valens Kemeri/Bozdoğan Kemeri)へ   .

ヴァレンス水道橋


ヴァレンス水道橋はビザンティン皇帝・コンスタンティヌス1世の時に工事を着工し、ヴァレンス帝の378年に完成したといわれている。イスタンブールはローマのように7つの丘をもつといわれるほど起伏に富んだ街なので、その丘と丘あいだを架け渡して水を通すためにこの二層アーチの水道橋が作られたという。よく壊されずに残ったものだと思ってしまうが、実はオスマン・トルコ時代にも使われていたらしい。使える物は使ってしまえという発想なのか、歴代スルタンに狂信的な人物がいなかっただけなのか、いずれにせよ、このある種の大らかさが六百余年の長期に亘る広範囲な帝国統治を可能にしたのだろう。

街中の一角で見かけたブランコ遊びをする子供。

イスタンブール内の公園


幼子がきゃっきゃとはしゃぐほほえましい様子、ではなくて、ブランコ本体を見てみると微妙に形が日本とは異なっている。まずは座るところは板状ではなく箱状になっており、次に足の部分には転落防止ガードが取り付けられている。つまり、これは箱の中に座れる大きさの人しか使えないということになる。日本の青春ドラマのようにイイトシした人がブランコをこぐ、または座る、ということが出来ない仕組みになっているのだ。トルコではブランコに座るのは幼児だけなのか?

世界遺産に登録されているイスタンブール歴史地区は4つの保護地域からなる。トプカプ宮殿やアヤソフィア、ブルー・モスクのある「遺跡公園地区(スルタンアフメト地区)」、ゼイレク・ジャミィを中心とした「ゼイレク・モスク地区」、テオドシウスの城壁やカールエ博物館(コーラ修道院)のある「大城壁地区」、そしてスレイマニエ・ジャミィのある「スレイマニエ・モスク地区」だ。

スレイマニエ・ジャミィ


スレイマニエ・ジャミィ(Süleymaniye Camii)はオスマンから数えて第十代目皇帝であったスレイマン1世(在位1520~1566)の時に作られた大モスクだ。
オスマン・トルコ帝國六百余年の歴史の中では36人の皇帝が在位したが、スレイマン1世ほど長く在位した皇帝はおらず、この皇帝の統治した46年が帝國の黄金時代であった。トルコ人はスレイマン1世のことを「カヌーニ(立法者)」と異名で呼ぶことが多く、西洋では「Süleyman the Magnificent」と呼ぶそうな。日本ではスレイマン大帝と呼ばれている皇帝だ。

このオスマン帝国の黄金時代を統治したスレイマン大帝が在位30年にあたる1550年から建設が始まり、7年の歳月をかけて建設されたモスクは、本堂が69メートル×63メートルあり、中央の高さ53メートルのところに直径27.25メートルで32の窓を持つドームがあり、さらに東西にそれぞれ半ドームが作られている。メッカの方角を示すミフラープに取りつけられている美しいステンドグラスは創建当時のものであるという。
また、モスクには6つの学校や研究所、病院、救貧院、無料給食接待所、浴場、キャラバン・サライ(隊商宿)、商店などの付属施設がある。ミナレットは4基あり、その内の2つは2つの廻廊をもち、残りの2つは廻廊が三層になっており、この4基のミナレットはスレイマン大帝がイスタンブールに居を定めたファティフ以来4番目の皇帝であることを示している。廻廊は合わせて10になるが、これはスレイマン大帝がオスマン・トルコ帝國の第10代皇帝であることのシンボルであるという。

スレイマニエ・ジャミィの一角。
礼拝の時間を告げるアザーンを流す塔・ミナレットと廻廊の一部だが、中央の身を清めるための泉水であるシャドルワンの横にいる人と比較してみるとその大きさがわかる。

スレイマニエ・ジャミィ


スレイマニエ・ジャミィは現在も礼拝所として使われており、礼拝時間中は異教徒は中へ入ることが出来ないが、それ以外の時間は一般公開されている。この辺りの大らかさはトルコならでは、といったところだろうか。
しばしの時間を待ち、中へ   .

スレイマニエ・ジャミィ


礼拝が終わってイスラム教徒のいなくなった内部は静かではあるが、どこか温かみのある雰囲気であった。三々五々に解散した人々の中には礼拝場の片隅に集まって世間話に花を咲かせる人や、熱心に祈りを捧げ続ける人もいる。モスクは礼拝所としての機能以外に人々の語らいの場としての機能も果たしているようだ。

スレイマニエ・ジャミィの境内の一角にはこの大モスクを作ったミマル・シナンの墓がある。

ミマル・シナン墓


100歳近くまで生きたシナンはスレイマン大帝の他にセリム2世やムラト3世にも仕え、オスマン帝国最高の建築家として知られている。スレイマニエ・ジャミィの他に、シェザーデ・メフメット・ジャミィ(通称シェザーデ・ジャミィ)や神学校、隊商宿、橋梁、墓廟など500にも亘る建築物を手がけたという。
現在残されているシナンの墓は後世の改修があまりにも大きく、些か残念なことであるが原形をとどめていないらしい。

旧市街のギュルハネからガラタ橋を渡って新市街のタクシム広場へ行き、イスティクラル通りを南下してアタテュルク橋を渡って再び旧市街に入り、アタテュルク通りにかかるヴァレンス水道橋を眺めてローマ帝国に思いを馳せ、スレイマニエ・ジャミィを堪能してスレイマン大帝の威光を偲ぶ。一日中歩き通しで心地よい疲労を感じたMyrthaは街中のレストランへ入った。

ウズカラ・キョフテ


レストランに入って好物になったウズカラ・キョフテ(Izgara köfte)を頼み、「そういえばまだ一度も飲んだことがなかったナ」とトルコの蒸留酒・ラク(RAKI)も注文すると、大いに驚かれた。この店でラクを頼んだ女性はMyrthaが初めてなのだろうか   


※トルコ旅行ひとくちメモ
イスタンブールの観光範囲となるのは主に3つに地域に分けられるだろう。まず、北の黒海から南下してマルマラ海へ通じているボスポラス海峡によって、東のアジア側と西のヨーロッパ側に分かれる。そして西のヨーロッパ側はボスポラス海峡の出口近くで西北に向かって切れ込む金角湾で分断され、南が旧市街、北が新市街となっている。旧市街は観光の中心で、新市街は各国の領事館や高級ホテルが集まっている。アジア側は古い歴史を持つものの、新興住宅街を中心としているためか、ヨーロッパ側と比べると見所は少ない。

一期一会と絆とsweetなこころ

震災後初めてのバレンタイン・デーということもあってか、テレビでは盛んに「今年のバレンタインのテーマは絆!家族や友人にチョコを贈りましょう♪」と放送していますが、実際の所はどうなのでしょうか?
サテ、今年も全国の獨男・喪女・非モテ並びに弊日記の愛読者のみなさまにMyrthaより愛をこめてチョコレートをお届けします。

今年はオーストリアはザルツブルクにあるBerger社のシャンパン・ローズ(No.2305)をチョイスしてみました。

シャンパンローズ


このCDと同じ大きさのチョコレートは、ひとたび口にほおばればシャンパンの香りが口の中に広がり、その後には薔薇の香りが重なる華やかなホワイトチョコレートでして、チョコレートに織り込まれた薔薇の花びらを眺めつつ、「薔薇の香に伏してたよりを書く夜かな(By池内友次郎)」などと口ずさみたくなることウケアイであります。ゑ?そんなことをするのはMyrthaだけですって?!まあまあよいではありませぬか。今日はチョコレートの祭典の日なのですから♪

おっと、「私、お酒はダメなのよね」という方のためにもノンアルコールのチョコを用意してみましたゾ(なんといっても今年のテーマは「絆を大切に」とのことですからナ)。それがこちら!

豆腐チョコレート


こちらは日本のBERRY CHOCOLATESが作っている「豆腐ちょこれーと・緑茶&ミルク」という一風変わったチョコレートでして、フリーズドライにされた豆腐のまわりに有機農法の白川緑茶葉を使用した緑茶チョコとミルクチョコを絡めたさくさくのヘルシー・チョコレートなのです!2種類のチョコを食べられる上に砂糖を使わずに天然の麦芽糖を使っているので、砂糖に比べてカロリーも押さえられているのだとか。ダイエット中の方も安心して食べられることでありましょう♪


チョコレート好きな方にとっても、チョコレートが苦手な方にとっても、今年はもう少し穏やかな一年になりますように(-人-)

アナトリア旅游13・イスタンブール再び篇(上)

自動車のエンジン音が低くあたりに響き渡り、目を覚ました。
窓の外を見ると、暗闇の中に観光バスや自家用車、トラックなど、大小さまざまな大きさの自動車が密集している。
何かあったのだろうか?

13日目。am2:55
異様とも受け止められる中で、熟睡しているポエ爺を揺さぶり起こして聞いてみた。
寝ぼけ眼のポエ爺はあたりを見回し、「ダーダネルス海峡を渡るための埠頭では?フェリーに乗り込んだら船内を歩けるから行ってみれば?対岸まで40分くらいだったと思うよ」と、必要情報を言い残してまた夢の中へ遊びに行ってしまった。

ヨーロッパ大陸からアジア大陸へ行くためにボスフォラス海峡を渡ったのが11日前の話だ。あの時は不覚にもバスが走り出した途端に眠りに落ちてしまい、ボスフォラス海峡を渡る瞬間を目にすることがかなわなかったが、今回はヨーロッパ大陸へ戻るためにダーダネルス海峡を渡る瞬間に立ち会えるのだ。暗闇にもかかわらず、わくわく感が増す。

対岸から渡ってきたフェリーに乗っている自動車が全て出払ってからバスごと中に入り   .
(かなり大きなフェリーだぞw)

ダーダネルス海峡


真っ暗なマルマラ海を静かに進んでいく。
この間、観光客は物珍しそうに、そして記念にとばかりにフェリーの上の階に設けられたベンチや甲板に出ては頻りに写真を撮ったり、興奮したりしている。海へ目をやると隣にも対岸を目指すフェリーの姿がある。一度に何隻の船が行き来しているのだろうか?

ダーダネルス海峡


対岸の灯りが見えてきたところで、置いてかれてはかなわないと慌ててバスに戻る。一足先にバスに戻ったポエ爺はすでにすやすやと寝入っている。いつとはなしに、再び夢の中の住人となっていった。

突然、肩を揺すられて飛び起きた。添乗員が降りろと合図をしたので、慌ててバスを飛び降りた。
am5:20
どうやらイスタンブールのオトガルに着いたらしい。
周りを見ると地方から上京したばかりのバスが客を下ろしている。
とりあえず旧市街方面へ戻らなければならないのだが、11日前に来たオトガルとは何か様子が違う。どこだ?ここは?

あたりを歩いている小父さんに旧市街へ行くバスを訊ねると、「どこから来た?乗ってきたバスの乗車券はないのか?」というようなことを聞かれ、とりあえず先ほど下ろされたMETRの乗車券の切れ端を見せると、「それならばあそこから乗れるよ」と教えてくれた。
イスタンブール行きのMETROのバスはミニバスでアクサライまで送ってくれるというのだ。高額なのはアクサライまでの費用込みだからなのか、大手バス会社だからなのか。。。
近くにあったこの建物の地図を見ると、このオトガルは地上2階、地下1階の3階建てとあり、恐らくトルコ国内最大規模のバスターミナルだろう。バス停が3階建てというのはにわかには信じがたいが、トルコ人からすれば東京駅や新宿駅の方が「信ジラレナイ」ということになるのだろうからお互いさまだ。

アクサライ近くのユスフ・パシャからトラムに乗り、旧市街の中でもダウンタウンにあたる一角のギュルハネまで行き、さっさと身体を休めたいということもあり、イスタンブールに来たその日に泊まったEmek Hotelに行き、しばしの休息を取る。

日が中天に昇りかけた頃、のっそりと起き上がって街へ出た。
バス移動によって睡眠時間が乱れても小腹の空くのは健康体だからなのか、食い意地がはっているだけなのか。。。
今後の行動のためにも、小腹を満たさなければというわけで、トルコ版ファストフードともいえるドネルケバブ屋へ入った。

イスタンブール・ドネルケバブ


これはホットケーキよりも薄く、クレープよりも少々厚手のパン生地に削ぎ落とした牛肉やトマト、フライドポテトと共に香辛料と青唐辛子を包み込んで再び焼いた食べ物だ。ギョズレメというトルコ版お好み焼きの一種(亜種?)になるのだろうか?見かけよりもボリュームがあり、これとアイランで十分にお腹いっぱいになる。

腹も満ち満ちたところで、初日に遠くから眺めつつも中へは入らなかった聖アヤソフィア聖堂(Ayasofya Müzesi)へ行ってみる。

イスタンブール・アヤソフィア


アヤソフィア聖堂はビザンティン帝国(東ローマ)のコンスタンティウス2世によって360年に建てられたギリシア正教の本山だ。度重なる火災に遭い、532年にはニカの乱によってテオドシウス2世の建てた聖堂が焼け落ちたためにユスティアヌス帝が再建にとりかかり、537年にビザンティン美術の最高傑作とされるこの大聖堂が完成した。

聖堂内にはさまざまな色の細片(テッセラ)をすきまなく敷きならべて壁画や床の装飾にするモザイク技法を用いた画がある。モザイク画の細片は大理石や貴石、色ガラス、金銀箔のガラスなどで、それを漆喰の地に埋めこむので耐久性に富み、長い歳月を経ても色彩が失われないという特色を持つ。

これは聖母子に聖ソフィア聖堂を捧げるユスティニアス1世(左)とコンスタンティノープルの街を捧げるコンスタンティヌス1世の寄進図。
ポイントは両皇帝の顔が双子のようにそっくりなところ、だろうか?

イスタンブール・アヤソフィア


福音書を持つキリスト(中央)に金貨を捧げるコンスタンティノス9世モノマホス(左,在位1042~1055)と文字の記された巻物(寄進目録?)を捧げる皇后ゾイ(右)の寄進図(光の反射で一部白っぽい画像になってしまったが、ま、「ご愛敬」ということで^^;)

イスタンブール・アヤソフィア


キリストを膝に抱いた聖母に金貨袋を捧げるヨアンネス2世(左,在位1118~1143)と目録の巻物を持つ皇后イリニ(右)の寄進図。

イスタンブール・アヤソフィア


歴代皇帝は聖ソフィア聖堂に寄進しては、その様子をモザイク画に表していたようだ。

こちらは中央にキリスト、左に聖母もマリア、右に洗礼者ヨハネが描かれている。下半分が失われてしまったこのモザイク画は製作年が12世紀とする説や13世紀後半とする説もあり、皇帝不在のために年代を確定できないらしい。

イスタンブール・アヤソフィア


普段、「キリスト教といえばバチカンを中心とした西洋世界のもの」と思ってしまいがちだが、これらのモザイク画を見ると、そこには欧米のキリスト教世界とはまったく異なるキリスト教世界があると思わざるを得なかった。「キリストの顔はどのようなものだったのか?」などとは考えたこともなかったが、宗教画を描く際に自分たちに似せて描くことを考えれば、西洋絵画のキリストよりもこちらのキリスト像のほうが実物に幾分かは近いのではないか?キリスト教は中東で生まれ、普及していったという事実をもう少し強く意識した方が良いのではないか?   そんなことを漠然と考えてしまった。

2階にあるモザイク画を見た後に1階に下りると、そこにはイスラム教世界が広がっている。
キリスト教寺院になぜイスラム教世界が同居しているのか?
これは1453年にオスマン帝国のメフメット2世がコンスタンティノープルを陥落させた時に、この聖ソフィア聖堂をイスラム教のモスクに変えるように命じたことによるという。モザイク画が「偶像である」として漆喰で塗り込められたのはメフメット2世の曾孫にあたるスレイマン1世の時であり、再び姿を現すのはイスラムモスクを廃され、国立博物館となることが決定した1934年10月24日、つまり20世紀のトルコ共和国成立後であった。

これはメッカの方角(キブラ)を示す窪み「ミフラーブ」。
さすがに地方のモスクのものと比べて立派なものだw

アヤソフィア


これは「ミンバル」と呼ばれる説教壇。
イスラム指導者はこの階段に腰掛けて講話をしたという。但し、講話者はその時の位階によって座れる段が決まっており、通常、最上階に座れるのはマホメットのみで、どんなに位の高い指導者でもこの段はマホメットを憚って座らず、2~3段下に腰掛けるのが慣例であったとか。

アヤソフィア


その他にも堂内の方々に暗緑色のプレートが掲げられ、その中には金色のアラビア文字で「アッラー」や「マホメット」などの他に、「アブー・バクル」「ウマル」「アリー」などの正統カリフ時代の指導者の名前が記されている。

アヤソフィア


イスラム教は偶像崇拝を禁じているので文字を装飾化していった。これらの文字は19世紀の著名な書家ハッタト・ノーッゼト・エフェンディの作品であるそうな。世界広しといえども、書家が存在するのは漢字圏とアラビア文字圏だけであろう。

聖ソフィア聖堂を出て、トプカプ宮殿(Topkapı Sarayı Müzesi)へ   .

トプカプ宮殿


トプカプ宮殿はボスポラス海峡、金角湾、マルマラ海の三面の海を睥睨する高みにあり、メフメット2世時代の1472年に造営が始まり、1474年に竣工したといわれている。が、その後の歴代スルタンはさまざまな増築や改築を加え続け、第31代スルタンのアブドゥル・メジト1世が1858年にスルタン座を新市街側のドルマバフチェ宮殿に移すまでの約380年間を宮殿として使われていたので、増改築のない方がおかしいともいえる。
尚、トルコ語でトプは「大砲」を、カプは「門」を意味し、門に大砲が置かれていたことに由来するという。

この敬礼門をくぐり、右側へ進めば東洋の陶磁器の展示所となっている厨房、左側へ進めばハーレムがある。
旅行シーズンのハーレムは入口を見るだけでも混雑が凄まじく、早々に見学を諦めたMyrthaは厨房へ足を進めた。

厨房では数百人の料理人が宮廷内の人間や訪問客のために毎日料理を作っていたという。そしてこの厨房で作られた料理は展示されている陶磁器に盛られていたのだろうか?
歴代スルタンの陶磁器コレクションはおよそ12000点あり、中国製は宋・元・明が中心で、清に変わった混乱期以降は日本の有田や伊万里が多いようだ。日本製はともかく、中国製の陶磁器はシルクロードを通って来たものを入手したのだろうが、皿のように割れやすい物を一体どのように運んだのだろうか?ポエ爺の方を向くと、「それはですね。皿の周りを泥で固めて割れにくくして、目的地に着いたら泥付きの皿を池に放り込んで泥を落としていたのです」との答え。「ホントか?」と思わず疑いたくなるが、それが本当ならば、輸送にどれほど大変であったであろうか?!この展示室に陳列されている陶磁器研究者垂涎の食器たちは正に値千金の贅沢品であるのだ!

値千金の陶磁器群を見て回り、宝物館へ足を運ぶと、そこには筆舌に尽くしがたいものが待ち受けていた。宝物館の展示ケースの中には、中央に262カラットの南米産エメラルドが埋めこまれた「ターバン飾り」も、86カラットのダイヤモンドのまわりを小さなダイヤで取り囲んだ「スプーン職人のダイヤ」も、柄の部分に3個のエメラルドが嵌め込まれ、ダイヤとエナメルの細密画で飾られた「トプカプの短剣」も、なかったのだ!
盗難?非公開中?修理中?

カラのケースの中のプレートを見ると、「今は東京にあるよ~ん♪」と書かれている。
やられた・・・!
よりによって、東京にあるとは・・・(この時、東京都美術館でトルコ・イスタンブール歴史紀行 トプカプ宮殿の至宝展という催し物があったのだ)

あまりのことにどっと疲れの出たMyrthaを慰めるボスフォラス海峡はただただ青く、どこまでも青かった。。。
トプカプ宮殿より第一ボスポラス大橋を遠望。

トプカプ宮殿


他にも、預言者の遺物を保存してある聖遺物の間など、修理中の部屋がかなりあり、がっかりしたMyrthaはとぼとぼとトプカプ宮殿を後にした。
教訓;美術品の在りかや修理中などの事前情報はきちんと調べよう。。。

つづいて考古学博物館(Arkeoloji Müzesi)へ   .

考古学博物館


考古学博物館は、ギリシア、ローマ時代の彫像、墓碑、石棺などを展示した本館と、エジプト、メソポタミア、初期アナトリア文明の遺物を展示した古代オリエント博物館と、12世紀から20世紀までのセルジュク、オスマン時代の陶磁器の展示されている陶磁器博物館の三館からなる。

考古学博物館


のんびりとハドリアヌス帝像などを見ていたら職員と思しき人に早々に追い出されてしまった。「親切なトルコ人といえども役人はどこの国も同じか・・・」思わず毒づきたくなってしまったが、どうやら閉館時間は17時ではなく、16:30らしい。
教訓;ガイドブックを読むときは隅々までよく目を通そう。。。

どうも今日はタイミングが悪いと感じたMyrthaは街中のキオスクでEfesビールを購入し、とぼとぼとホテルへ戻るのであった   .


※トルコ旅行ひとくちメモ
イスタンブールに最初に集落をつくったのはトラキアからの移住者で、アジア側のカドゥキョイであったという。紀元前7世紀にビサス率いるギリシア・メガラ人移住者がデルフォイの信託に従って現在の旧市街の先端部一帯に街をひらいた。街は統率者に因んで「ビザンティオン(ビザンティウム)と呼ばれて海上交易で栄えたが、2世紀末にローマと敵対したためにセプティミウス・セヴェルス帝の怒りを買い、徹底的に破壊された。
A.D.330年、コンスタンティヌス帝はローマの都を再び栄えたこの地に移し、「コンスタンティヌスの街」の意であるコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と呼ばれるようになった。ローマ帝国が東西に分裂した後も東ローマ帝国として1000年以上も繁栄を続けたが、1204年に第4回十字軍がコンスタンティノープルを占拠して街は荒廃し、トルコ族の侵攻もあって次第に国力は衰えていき、セルジュク・トルコに替わってアナトリアを支配したオスマン・トルコのメフメット2世がこの地を包囲した時、東ローマ帝国領は現在のイスタンブール旧市街とわずかな周辺地だけとなっていた。
1453年、念願のコンスタンティノープルを奪取したメフメット2世はエディルネから都をコンスタンティノープルに移し、イスタンブルと呼んだ。こうしてイスタンブールの首都としての地位はオスマン帝国が第一次世界大戦に敗れた後の1923年にアンカラが新首都と定められるまで続き、現在もトルコ共和国の経済と文化の中心として栄えている。
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