周の制度覚え書き

周の武王没後、武王の弟の周公旦が摂政し、王を称したが後に政権を武王の嫡子(成王)に渡したことにより、「子継の法」が始まり、以後「百王不易の制」となった。
また、兄弟に長幼の序による次第がなくなれば「子継」でもって反って争いが甚だしくなる。そこで「子継の制」とともに嫡長子とそのほかの庶子とを区別する「嫡庶の制」が生まれた。

宗法とは、周代に編み出されもので「嫡庶の制」を基礎に親疎身分を序列化して一族を纏める合族の法のことである。
『礼記』によると諸侯の国には大宗一人と小宗四人の宗子(族長)、即ち継別の大宗と継曽祖、継曽祖、継祖、継禰(父)の四小宗とがおり、小宗はそれぞれの宗族を統率し、大宗は全宗族を統率する。諸侯初代の君位を継承するのはその嫡長子であるから、その同母諸弟の一人が「別子」と称して諸侯から独立し、分家を構える。それが大宗である。大宗を継ぐのもその嫡長子であり、同様にして世代ごとに分家して四世代で小宗が上記の四人となる。これを継ぐのも嫡長子である。

廟数は四親(禰・祖・曽祖・高祖)の廟と五親以上を合祀する廟(不毀の廟)との五廟とし、新禰廟が加わると、各親廟は順に繰り上げられてて前の高祖廟は「不毀の廟」に移し合祀されて四親廟制が維持される。喪服も尊卑・親疎によって異なるが、高祖以上のための服はない。つまり、宗法も喪服も祭祀廟制も五世をもって親属関係が尽きるとする。

「嫡庶の制」は「尊統(君尊)」のために「尊尊の義」を柱に制定された政治的結合制度であるが、この「嫡庶の制」に由って「親親の義」を柱に制定された血縁的統合(合族)法、即ち、「親統(宗統)」のための制度である宗法が生じ、さらに宗法から喪服制、廟制が生じた。これが制定過程についての王国維の見解である。
そして王国維はこの諸侯の礼制を王朝にも適用し、「天子は実質的には『最大の宗子』である」という。
また、「同姓不婚の制」によって、百世でも通婚できず、異姓諸侯との婚姻が進み、結果として異姓諸侯国が婚媾甥舅の誼によって周王朝傘下に組み込まれることになった。

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うむ。書いていてよくわからなくなってきた。。。。

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