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アナトリア旅游8・セルチュク篇(下)

8日目。
階上のテラスへ行くと朝食を出された。
昨日と同じく果物ばかりの朝食だが、今日はアプリコットがもう一つ追加されている。
朝食を食べつつ、旅程についてをポエ爺と話し合った。

ポエ爺の旅行計画によると、明日には次の街へ移動するが、その街はセルチュクからの直行便のバスはなく、一度、イズミールへ出なければならないという。そして、バスの乗り継ぎがイズミールでうまくいけばよいが、乗り継ぎがうまくいかないと、オトガル内で一夜を明かすことになりかねないという(なんてこったい!)。
そこでまずはセルチュク内のオトガルへ行き、明日のイズミール行きバスを押さえることにした。

オトガルへ行き、イズミール行きのバスの乗車券を求めると、一人6YTLで早朝の6時50分に発つという。少々早すぎるような気もするが、これだけ早ければイズミールで夜を明かすこともなかろうということで、明日のセルチュク出立時刻は6時50分となった。

明日のバスの工面もついたし、さあ!セルチュクの街を逍遙するぞ!

まず最初に訪れたのは、聖ヨハネ教会跡(St.John (Aziz Yohya)Kilisesi)。
キリスト教の12使徒の一人で小アジアの地に7つの教会を建立したヨハネは、イエスの死後、聖母マリアを守りながらこの地で過ごし、この町にあるアヤ・ソルクの丘に埋葬されたといわれている。
ヨハネの住んでいたこの礼拝堂は、6世紀にローマ皇帝ユスティニアヌスが教会に変えたが、14世紀初期にはイスラム寺院として使われていたといわれる。この教会跡は正面入口の追撃門のほか、東西にも門があり、中庭を通じて6つのドームをもつ本館が建てられていたらしい。

聖ヨハネ教会跡



正面入口を入ってすぐの風景。

聖ヨハネ教会跡


アヤ・ソルクの城塞を背景に   .

聖ヨハネ教会跡


お気に入りの一枚(この一枚だけは拡大してみた方がいいなぁw)

聖ヨハネ教会跡


聖ヨハネ教会跡を出てすぐの所に、子供達の集まる小さな建物があった。
何だろう?
好奇心にまかせて中をのぞくと手招きをされた。

モスク


この建物の指導者(管理人?)の話を推測するに、どうやらここは町中にある小さな礼拝堂であるらしい。礼拝堂である以上は、イスラム教徒にとっての聖地であるメッカの方角を示す壁にある窪みである「ミフラプ(Mihrab)」があるはずだ。きょろきょろと室内を見渡すまでもなく、入口の正面中央にあった(扇風機が「いかにも使われている礼拝堂です」という雰囲気を醸しだしているなぁ)。

モスク


そして、当然のことながらイスラム教の聖典であるコーランもあった。
個人で所有しているコーランはいざ知らず、どんなに小さな礼拝堂でもイスラム指導者のいるところにはこのように文章の周りを美しく装飾したコーランが置かれているものらしい。アラビア文字は読めないものの、一冊手元に置きたくなってしまうほどだ。

モスク


この礼拝堂の指導者とおぼしき人の話が一通り終わったあと、最後に「もしよろしければ、幾何かの喜捨をお願いできませんか?」とひと言付えてきた。異教徒にとって滅多に入れないはずの今現在使われている礼拝堂に入れたこともあり、そしてずうずうしくも写真まで撮らせて下さったこともあり、10YTLほどの喜捨をして、この小さな礼拝堂を後にした。

モスク


ポエ爺の話によるとイスタンブールにある大きなモスクならばいざ知らず、地方の小さなモスクや礼拝堂はどこも財政のやりくりが大変なため、そこで一つの方法として異教徒が訪れた時に中へ入れて案内をし、寄付をもらうことによって財政の足しにしているのだとか。どこも懐具合は苦しいのだなぁと思いつつ、二人で10YTLは寄付として少なかったのか、はたまた適正な価格だったのだろうかと考えてしまうMyrthaであった。

どこをどう見ても南国に植えられているとしか思えない街路樹の木陰を歩きつつ坂道を下っていくと、イサベイ・ジャミィが姿を現した。

セルチュク


イサベイ・ジャミィ(İsabey Camii)は、1375年にダマスカス出身の建築家ディミシュクリ・アリによって建設されたモスクで、セルジューク朝からオスマン朝への過渡期の建築物として評価が高い。

イサ・ベイ・ジャミィ


中庭に入ると、様々なデザイン・大きさのムスリム達の卒塔婆が建てられ、折れかかったミナレットにはコウノトリが巣を作っていた。

イサ・ベイ・ジャミィ


「今日は休館日で中には入れないのかしら?」などと思いつつ、中庭の階段に腰掛けていると、鍵を持った男性が現れて礼拝堂の中に招き入れてくれた。
先ほどの喜捨により、アラーの霊験が顕れたのだろうか?

礼拝堂内部は思っていたよりも明るく、入口正面にはメッカの方角を示すミフラプとイスラム指導者が講話を述べる時に腰掛ける「説教壇」と呼ばれる階段が置かれていたが、残念なことに、私には、セルジューク時代の建築物と、オスマン時代の建築物の違いがよくわからなかった。

イサ・ベイ・ジャミィ


イサベイ・ジャミィを後にして真昼の日差しの下を歩いていると、立入禁止の柵の向こう側に、傾いた石の台座の上に、穴の空いたドームが乗せられた遺跡があった。
ポエ爺によると、あのドーム型の遺跡は昔使われていた風呂であるという。どのように使われていたのか詳細はわからないが、現在トルコで使われている風呂が日本のような湯浴み式風呂ではなく、スチーム式の蒸し風呂であることを考えれば、このオールド・ハマームも現代の蒸し風呂とそう大差ない使われかたをしていたのではないか、とのことである。

オールド・ハマム


この日は、明日の移動に備えるという意味も含め、アヤ・ソルクの城塞には行かず、ホメロス・ペンションにもどり、友人や家族への手紙を書いた。

夕刻、ワイングラスを片手にペンションの屋上へ上がり、セルチュク最後の日没を目にした。
市街地から背を向け、畑の広がる更にその先の山の端には赤々とした太陽が今にも姿を隠そうとしていた。

セルチュクの夕暮れ


「明日は順調にベルガマへたどり着けますように」
姿を隠しつつある太陽に、密かに祈るMyrthaであった   .


※トルコ旅行ひとくちメモ
セルチュク(Selçuk)はエフェソスの北東5kmに位置しており、かつてはギリシア語で「神学者ヨハネ」を表すアギオス・セオロゴス (Agios Theologos)と呼ばれていた。オスマン・トルコ支配下ではアヤソルク(Ayasluğ)と呼ばれていたが、1914年に12世紀にこの地を支配していたセルジューク・トルコにちなんで現在のセルチュクと改名された。ほとんどの観光客はエフェソス観光の拠点としてセルチュクに滞在しているが、セルチュクの歴史地区は保存状態が良く、開発も進んでいないため、伝統的なトルコの文化を保持している。

コメント

あ。もう未完で終わるのかと思ってたw
いいなぁヨハネ教会。アルテミス神殿から見えた奴ですよね。

風景もさることながら、空気感が日本とは違いますねやっぱり。異国だなあ…。

ドーム状の建造物を見ると、なんだか心がざわざわします…商売柄ww

>Magicさん
何年かかろうとも書き上げますよう!
なにせ、これを書き終えないと次の旅行に出られませんからw

聖ヨハネ教会は白人系(クリスチャン系?)の観光客がバスに乗って
大挙して押し寄せてくるところでした。
次回のトルコ旅行では是非行ってみてくださいw

>かま猫さん

>空気感が日本とは違いますね
ワタクシの拙い写真で異国の空気を感を感じられるとはすごいですわ!
ちょっぴり嬉しく思います☆

>ドーム状の建造物を見ると、なんだか心がざわざわします
ドーム状の建物でしたらばモスクの屋根を筆頭にトルコ中にありますので
強 く オススメしますよ!

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