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アナトリア旅游13・イスタンブール再び篇(上)

自動車のエンジン音が低くあたりに響き渡り、目を覚ました。
窓の外を見ると、暗闇の中に観光バスや自家用車、トラックなど、大小さまざまな大きさの自動車が密集している。
何かあったのだろうか?

13日目。am2:55
異様とも受け止められる中で、熟睡しているポエ爺を揺さぶり起こして聞いてみた。
寝ぼけ眼のポエ爺はあたりを見回し、「ダーダネルス海峡を渡るための埠頭では?フェリーに乗り込んだら船内を歩けるから行ってみれば?対岸まで40分くらいだったと思うよ」と、必要情報を言い残してまた夢の中へ遊びに行ってしまった。

ヨーロッパ大陸からアジア大陸へ行くためにボスフォラス海峡を渡ったのが11日前の話だ。あの時は不覚にもバスが走り出した途端に眠りに落ちてしまい、ボスフォラス海峡を渡る瞬間を目にすることがかなわなかったが、今回はヨーロッパ大陸へ戻るためにダーダネルス海峡を渡る瞬間に立ち会えるのだ。暗闇にもかかわらず、わくわく感が増す。

対岸から渡ってきたフェリーに乗っている自動車が全て出払ってからバスごと中に入り   .
(かなり大きなフェリーだぞw)

ダーダネルス海峡


真っ暗なマルマラ海を静かに進んでいく。
この間、観光客は物珍しそうに、そして記念にとばかりにフェリーの上の階に設けられたベンチや甲板に出ては頻りに写真を撮ったり、興奮したりしている。海へ目をやると隣にも対岸を目指すフェリーの姿がある。一度に何隻の船が行き来しているのだろうか?

ダーダネルス海峡


対岸の灯りが見えてきたところで、置いてかれてはかなわないと慌ててバスに戻る。一足先にバスに戻ったポエ爺はすでにすやすやと寝入っている。いつとはなしに、再び夢の中の住人となっていった。

突然、肩を揺すられて飛び起きた。添乗員が降りろと合図をしたので、慌ててバスを飛び降りた。
am5:20
どうやらイスタンブールのオトガルに着いたらしい。
周りを見ると地方から上京したばかりのバスが客を下ろしている。
とりあえず旧市街方面へ戻らなければならないのだが、11日前に来たオトガルとは何か様子が違う。どこだ?ここは?

あたりを歩いている小父さんに旧市街へ行くバスを訊ねると、「どこから来た?乗ってきたバスの乗車券はないのか?」というようなことを聞かれ、とりあえず先ほど下ろされたMETRの乗車券の切れ端を見せると、「それならばあそこから乗れるよ」と教えてくれた。
イスタンブール行きのMETROのバスはミニバスでアクサライまで送ってくれるというのだ。高額なのはアクサライまでの費用込みだからなのか、大手バス会社だからなのか。。。
近くにあったこの建物の地図を見ると、このオトガルは地上2階、地下1階の3階建てとあり、恐らくトルコ国内最大規模のバスターミナルだろう。バス停が3階建てというのはにわかには信じがたいが、トルコ人からすれば東京駅や新宿駅の方が「信ジラレナイ」ということになるのだろうからお互いさまだ。

アクサライ近くのユスフ・パシャからトラムに乗り、旧市街の中でもダウンタウンにあたる一角のギュルハネまで行き、さっさと身体を休めたいということもあり、イスタンブールに来たその日に泊まったEmek Hotelに行き、しばしの休息を取る。

日が中天に昇りかけた頃、のっそりと起き上がって街へ出た。
バス移動によって睡眠時間が乱れても小腹の空くのは健康体だからなのか、食い意地がはっているだけなのか。。。
今後の行動のためにも、小腹を満たさなければというわけで、トルコ版ファストフードともいえるドネルケバブ屋へ入った。

イスタンブール・ドネルケバブ


これはホットケーキよりも薄く、クレープよりも少々厚手のパン生地に削ぎ落とした牛肉やトマト、フライドポテトと共に香辛料と青唐辛子を包み込んで再び焼いた食べ物だ。ギョズレメというトルコ版お好み焼きの一種(亜種?)になるのだろうか?見かけよりもボリュームがあり、これとアイランで十分にお腹いっぱいになる。

腹も満ち満ちたところで、初日に遠くから眺めつつも中へは入らなかった聖アヤソフィア聖堂(Ayasofya Müzesi)へ行ってみる。

イスタンブール・アヤソフィア


アヤソフィア聖堂はビザンティン帝国(東ローマ)のコンスタンティウス2世によって360年に建てられたギリシア正教の本山だ。度重なる火災に遭い、532年にはニカの乱によってテオドシウス2世の建てた聖堂が焼け落ちたためにユスティアヌス帝が再建にとりかかり、537年にビザンティン美術の最高傑作とされるこの大聖堂が完成した。

聖堂内にはさまざまな色の細片(テッセラ)をすきまなく敷きならべて壁画や床の装飾にするモザイク技法を用いた画がある。モザイク画の細片は大理石や貴石、色ガラス、金銀箔のガラスなどで、それを漆喰の地に埋めこむので耐久性に富み、長い歳月を経ても色彩が失われないという特色を持つ。

これは聖母子に聖ソフィア聖堂を捧げるユスティニアス1世(左)とコンスタンティノープルの街を捧げるコンスタンティヌス1世の寄進図。
ポイントは両皇帝の顔が双子のようにそっくりなところ、だろうか?

イスタンブール・アヤソフィア


福音書を持つキリスト(中央)に金貨を捧げるコンスタンティノス9世モノマホス(左,在位1042~1055)と文字の記された巻物(寄進目録?)を捧げる皇后ゾイ(右)の寄進図(光の反射で一部白っぽい画像になってしまったが、ま、「ご愛敬」ということで^^;)

イスタンブール・アヤソフィア


キリストを膝に抱いた聖母に金貨袋を捧げるヨアンネス2世(左,在位1118~1143)と目録の巻物を持つ皇后イリニ(右)の寄進図。

イスタンブール・アヤソフィア


歴代皇帝は聖ソフィア聖堂に寄進しては、その様子をモザイク画に表していたようだ。

こちらは中央にキリスト、左に聖母もマリア、右に洗礼者ヨハネが描かれている。下半分が失われてしまったこのモザイク画は製作年が12世紀とする説や13世紀後半とする説もあり、皇帝不在のために年代を確定できないらしい。

イスタンブール・アヤソフィア


普段、「キリスト教といえばバチカンを中心とした西洋世界のもの」と思ってしまいがちだが、これらのモザイク画を見ると、そこには欧米のキリスト教世界とはまったく異なるキリスト教世界があると思わざるを得なかった。「キリストの顔はどのようなものだったのか?」などとは考えたこともなかったが、宗教画を描く際に自分たちに似せて描くことを考えれば、西洋絵画のキリストよりもこちらのキリスト像のほうが実物に幾分かは近いのではないか?キリスト教は中東で生まれ、普及していったという事実をもう少し強く意識した方が良いのではないか?   そんなことを漠然と考えてしまった。

2階にあるモザイク画を見た後に1階に下りると、そこにはイスラム教世界が広がっている。
キリスト教寺院になぜイスラム教世界が同居しているのか?
これは1453年にオスマン帝国のメフメット2世がコンスタンティノープルを陥落させた時に、この聖ソフィア聖堂をイスラム教のモスクに変えるように命じたことによるという。モザイク画が「偶像である」として漆喰で塗り込められたのはメフメット2世の曾孫にあたるスレイマン1世の時であり、再び姿を現すのはイスラムモスクを廃され、国立博物館となることが決定した1934年10月24日、つまり20世紀のトルコ共和国成立後であった。

これはメッカの方角(キブラ)を示す窪み「ミフラーブ」。
さすがに地方のモスクのものと比べて立派なものだw

アヤソフィア


これは「ミンバル」と呼ばれる説教壇。
イスラム指導者はこの階段に腰掛けて講話をしたという。但し、講話者はその時の位階によって座れる段が決まっており、通常、最上階に座れるのはマホメットのみで、どんなに位の高い指導者でもこの段はマホメットを憚って座らず、2~3段下に腰掛けるのが慣例であったとか。

アヤソフィア


その他にも堂内の方々に暗緑色のプレートが掲げられ、その中には金色のアラビア文字で「アッラー」や「マホメット」などの他に、「アブー・バクル」「ウマル」「アリー」などの正統カリフ時代の指導者の名前が記されている。

アヤソフィア


イスラム教は偶像崇拝を禁じているので文字を装飾化していった。これらの文字は19世紀の著名な書家ハッタト・ノーッゼト・エフェンディの作品であるそうな。世界広しといえども、書家が存在するのは漢字圏とアラビア文字圏だけであろう。

聖ソフィア聖堂を出て、トプカプ宮殿(Topkapı Sarayı Müzesi)へ   .

トプカプ宮殿


トプカプ宮殿はボスポラス海峡、金角湾、マルマラ海の三面の海を睥睨する高みにあり、メフメット2世時代の1472年に造営が始まり、1474年に竣工したといわれている。が、その後の歴代スルタンはさまざまな増築や改築を加え続け、第31代スルタンのアブドゥル・メジト1世が1858年にスルタン座を新市街側のドルマバフチェ宮殿に移すまでの約380年間を宮殿として使われていたので、増改築のない方がおかしいともいえる。
尚、トルコ語でトプは「大砲」を、カプは「門」を意味し、門に大砲が置かれていたことに由来するという。

この敬礼門をくぐり、右側へ進めば東洋の陶磁器の展示所となっている厨房、左側へ進めばハーレムがある。
旅行シーズンのハーレムは入口を見るだけでも混雑が凄まじく、早々に見学を諦めたMyrthaは厨房へ足を進めた。

厨房では数百人の料理人が宮廷内の人間や訪問客のために毎日料理を作っていたという。そしてこの厨房で作られた料理は展示されている陶磁器に盛られていたのだろうか?
歴代スルタンの陶磁器コレクションはおよそ12000点あり、中国製は宋・元・明が中心で、清に変わった混乱期以降は日本の有田や伊万里が多いようだ。日本製はともかく、中国製の陶磁器はシルクロードを通って来たものを入手したのだろうが、皿のように割れやすい物を一体どのように運んだのだろうか?ポエ爺の方を向くと、「それはですね。皿の周りを泥で固めて割れにくくして、目的地に着いたら泥付きの皿を池に放り込んで泥を落としていたのです」との答え。「ホントか?」と思わず疑いたくなるが、それが本当ならば、輸送にどれほど大変であったであろうか?!この展示室に陳列されている陶磁器研究者垂涎の食器たちは正に値千金の贅沢品であるのだ!

値千金の陶磁器群を見て回り、宝物館へ足を運ぶと、そこには筆舌に尽くしがたいものが待ち受けていた。宝物館の展示ケースの中には、中央に262カラットの南米産エメラルドが埋めこまれた「ターバン飾り」も、86カラットのダイヤモンドのまわりを小さなダイヤで取り囲んだ「スプーン職人のダイヤ」も、柄の部分に3個のエメラルドが嵌め込まれ、ダイヤとエナメルの細密画で飾られた「トプカプの短剣」も、なかったのだ!
盗難?非公開中?修理中?

カラのケースの中のプレートを見ると、「今は東京にあるよ~ん♪」と書かれている。
やられた・・・!
よりによって、東京にあるとは・・・(この時、東京都美術館でトルコ・イスタンブール歴史紀行 トプカプ宮殿の至宝展という催し物があったのだ)

あまりのことにどっと疲れの出たMyrthaを慰めるボスフォラス海峡はただただ青く、どこまでも青かった。。。
トプカプ宮殿より第一ボスポラス大橋を遠望。

トプカプ宮殿


他にも、預言者の遺物を保存してある聖遺物の間など、修理中の部屋がかなりあり、がっかりしたMyrthaはとぼとぼとトプカプ宮殿を後にした。
教訓;美術品の在りかや修理中などの事前情報はきちんと調べよう。。。

つづいて考古学博物館(Arkeoloji Müzesi)へ   .

考古学博物館


考古学博物館は、ギリシア、ローマ時代の彫像、墓碑、石棺などを展示した本館と、エジプト、メソポタミア、初期アナトリア文明の遺物を展示した古代オリエント博物館と、12世紀から20世紀までのセルジュク、オスマン時代の陶磁器の展示されている陶磁器博物館の三館からなる。

考古学博物館


のんびりとハドリアヌス帝像などを見ていたら職員と思しき人に早々に追い出されてしまった。「親切なトルコ人といえども役人はどこの国も同じか・・・」思わず毒づきたくなってしまったが、どうやら閉館時間は17時ではなく、16:30らしい。
教訓;ガイドブックを読むときは隅々までよく目を通そう。。。

どうも今日はタイミングが悪いと感じたMyrthaは街中のキオスクでEfesビールを購入し、とぼとぼとホテルへ戻るのであった   .


※トルコ旅行ひとくちメモ
イスタンブールに最初に集落をつくったのはトラキアからの移住者で、アジア側のカドゥキョイであったという。紀元前7世紀にビサス率いるギリシア・メガラ人移住者がデルフォイの信託に従って現在の旧市街の先端部一帯に街をひらいた。街は統率者に因んで「ビザンティオン(ビザンティウム)と呼ばれて海上交易で栄えたが、2世紀末にローマと敵対したためにセプティミウス・セヴェルス帝の怒りを買い、徹底的に破壊された。
A.D.330年、コンスタンティヌス帝はローマの都を再び栄えたこの地に移し、「コンスタンティヌスの街」の意であるコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と呼ばれるようになった。ローマ帝国が東西に分裂した後も東ローマ帝国として1000年以上も繁栄を続けたが、1204年に第4回十字軍がコンスタンティノープルを占拠して街は荒廃し、トルコ族の侵攻もあって次第に国力は衰えていき、セルジュク・トルコに替わってアナトリアを支配したオスマン・トルコのメフメット2世がこの地を包囲した時、東ローマ帝国領は現在のイスタンブール旧市街とわずかな周辺地だけとなっていた。
1453年、念願のコンスタンティノープルを奪取したメフメット2世はエディルネから都をコンスタンティノープルに移し、イスタンブルと呼んだ。こうしてイスタンブールの首都としての地位はオスマン帝国が第一次世界大戦に敗れた後の1923年にアンカラが新首都と定められるまで続き、現在もトルコ共和国の経済と文化の中心として栄えている。

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