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アナトリア旅游14・イスタンブール再び篇(下)

14日目。
朝早く   とはいってもビジネスマンはとっくに働きに出ている時間だが   折角なので他のホテルにも泊まってみよう!ということで、Emek Hotelを出てHOTEL AKÇINARへ引っ越しをしてからガラタ橋界隈名物のサバサンドを食べに行く。

サバサンドは三枚おろしにしたサバに塩胡椒をふって鉄板焼きにしたものをレタスやトマト、玉ねぎと一緒にエキメックに挟み、レモン汁をかけたシンプルなサンドイッチだ。以前は釣ったサバを船上で調理・販売していたが、衛生面などの理由により規制されてしまい、現在は船上販売は観光用としてわずかに残っているのみで、店舗で売られていることが多いようだ。
「三枚おろしにした魚といえば網焼き」と考えてしまうのが日本人だが、こうして塩胡椒を振って鉄板焼きにしたサバもなかなか美味しい。味はサバというよりもアジに近いような気もするが、そんなことは気にもかけずにこの美味なるサンドイッチをほおばっていたら、写真を取り忘れてしまった_| ̄|○

そのような訳で、どのような食べ物下記になる方は、現地に飛ぶか、ガイドブックを見に書店へ行くか、Magic氏のトルコ旅行記7-1 サバサンドを読むかをして下さい。
Magic氏は2009年の冬にトルコへ行かれたようで、ご自身のBlog「三度目の世界征服」でトルコ旅行についてを書かれているのだ。Myrthaの旅行期間とは対照的な季節のトルコを写真で見られるのでなかなか興味深いものがありますゾ。
因みにサバサンドは飲み物付きで3YTLナリ。

腹も満ち満ちたところでガラタ橋を渡って新市街へ   .
新市街のシシャネからレトロな路面電車に乗り、終点のタクシム広場(Taksim Meydanı)へ向かう。

タムシム広場


タクシムとはアラビア語で「分割・分配」を意味し、オスマン帝国時代に都市の各方面に水を送る分水設備があったことに由来するそうな。現在は広場中央に1928年に完成した共和国記念碑が建ち、トルコの近代化を推進した共和国初代大統領ケマル・アタチュルクの銅像がある。ここから南西方向に向かって歩くとイスティクラル通り(İstiklâl Caddesi)がある。

イスティクラル通り


イスティクラル通りはイスタンブールきっての繁華街で、ブランド・ショップやブティック、カフェ、各国領事館などが建ち並び、歩行者天国になっている通りを先ほど乗っていた路面電車が通り過ぎていく。買い物好きな女性はもちろんのこと、ウィンドウ・ショッピングだけでも楽しい一角だ。買い物に無関心なポエ爺は・・・あえて語るまいw

イスティクラル通りを南下してアタテュルク橋を渡り、ヴァレンス水道橋(Valens Kemeri/Bozdoğan Kemeri)へ   .

ヴァレンス水道橋


ヴァレンス水道橋はビザンティン皇帝・コンスタンティヌス1世の時に工事を着工し、ヴァレンス帝の378年に完成したといわれている。イスタンブールはローマのように7つの丘をもつといわれるほど起伏に富んだ街なので、その丘と丘あいだを架け渡して水を通すためにこの二層アーチの水道橋が作られたという。よく壊されずに残ったものだと思ってしまうが、実はオスマン・トルコ時代にも使われていたらしい。使える物は使ってしまえという発想なのか、歴代スルタンに狂信的な人物がいなかっただけなのか、いずれにせよ、このある種の大らかさが六百余年の長期に亘る広範囲な帝国統治を可能にしたのだろう。

街中の一角で見かけたブランコ遊びをする子供。

イスタンブール内の公園


幼子がきゃっきゃとはしゃぐほほえましい様子、ではなくて、ブランコ本体を見てみると微妙に形が日本とは異なっている。まずは座るところは板状ではなく箱状になっており、次に足の部分には転落防止ガードが取り付けられている。つまり、これは箱の中に座れる大きさの人しか使えないということになる。日本の青春ドラマのようにイイトシした人がブランコをこぐ、または座る、ということが出来ない仕組みになっているのだ。トルコではブランコに座るのは幼児だけなのか?

世界遺産に登録されているイスタンブール歴史地区は4つの保護地域からなる。トプカプ宮殿やアヤソフィア、ブルー・モスクのある「遺跡公園地区(スルタンアフメト地区)」、ゼイレク・ジャミィを中心とした「ゼイレク・モスク地区」、テオドシウスの城壁やカールエ博物館(コーラ修道院)のある「大城壁地区」、そしてスレイマニエ・ジャミィのある「スレイマニエ・モスク地区」だ。

スレイマニエ・ジャミィ


スレイマニエ・ジャミィ(Süleymaniye Camii)はオスマンから数えて第十代目皇帝であったスレイマン1世(在位1520~1566)の時に作られた大モスクだ。
オスマン・トルコ帝國六百余年の歴史の中では36人の皇帝が在位したが、スレイマン1世ほど長く在位した皇帝はおらず、この皇帝の統治した46年が帝國の黄金時代であった。トルコ人はスレイマン1世のことを「カヌーニ(立法者)」と異名で呼ぶことが多く、西洋では「Süleyman the Magnificent」と呼ぶそうな。日本ではスレイマン大帝と呼ばれている皇帝だ。

このオスマン帝国の黄金時代を統治したスレイマン大帝が在位30年にあたる1550年から建設が始まり、7年の歳月をかけて建設されたモスクは、本堂が69メートル×63メートルあり、中央の高さ53メートルのところに直径27.25メートルで32の窓を持つドームがあり、さらに東西にそれぞれ半ドームが作られている。メッカの方角を示すミフラープに取りつけられている美しいステンドグラスは創建当時のものであるという。
また、モスクには6つの学校や研究所、病院、救貧院、無料給食接待所、浴場、キャラバン・サライ(隊商宿)、商店などの付属施設がある。ミナレットは4基あり、その内の2つは2つの廻廊をもち、残りの2つは廻廊が三層になっており、この4基のミナレットはスレイマン大帝がイスタンブールに居を定めたファティフ以来4番目の皇帝であることを示している。廻廊は合わせて10になるが、これはスレイマン大帝がオスマン・トルコ帝國の第10代皇帝であることのシンボルであるという。

スレイマニエ・ジャミィの一角。
礼拝の時間を告げるアザーンを流す塔・ミナレットと廻廊の一部だが、中央の身を清めるための泉水であるシャドルワンの横にいる人と比較してみるとその大きさがわかる。

スレイマニエ・ジャミィ


スレイマニエ・ジャミィは現在も礼拝所として使われており、礼拝時間中は異教徒は中へ入ることが出来ないが、それ以外の時間は一般公開されている。この辺りの大らかさはトルコならでは、といったところだろうか。
しばしの時間を待ち、中へ   .

スレイマニエ・ジャミィ


礼拝が終わってイスラム教徒のいなくなった内部は静かではあるが、どこか温かみのある雰囲気であった。三々五々に解散した人々の中には礼拝場の片隅に集まって世間話に花を咲かせる人や、熱心に祈りを捧げ続ける人もいる。モスクは礼拝所としての機能以外に人々の語らいの場としての機能も果たしているようだ。

スレイマニエ・ジャミィの境内の一角にはこの大モスクを作ったミマル・シナンの墓がある。

ミマル・シナン墓


100歳近くまで生きたシナンはスレイマン大帝の他にセリム2世やムラト3世にも仕え、オスマン帝国最高の建築家として知られている。スレイマニエ・ジャミィの他に、シェザーデ・メフメット・ジャミィ(通称シェザーデ・ジャミィ)や神学校、隊商宿、橋梁、墓廟など500にも亘る建築物を手がけたという。
現在残されているシナンの墓は後世の改修があまりにも大きく、些か残念なことであるが原形をとどめていないらしい。

旧市街のギュルハネからガラタ橋を渡って新市街のタクシム広場へ行き、イスティクラル通りを南下してアタテュルク橋を渡って再び旧市街に入り、アタテュルク通りにかかるヴァレンス水道橋を眺めてローマ帝国に思いを馳せ、スレイマニエ・ジャミィを堪能してスレイマン大帝の威光を偲ぶ。一日中歩き通しで心地よい疲労を感じたMyrthaは街中のレストランへ入った。

ウズカラ・キョフテ


レストランに入って好物になったウズカラ・キョフテ(Izgara köfte)を頼み、「そういえばまだ一度も飲んだことがなかったナ」とトルコの蒸留酒・ラク(RAKI)も注文すると、大いに驚かれた。この店でラクを頼んだ女性はMyrthaが初めてなのだろうか   


※トルコ旅行ひとくちメモ
イスタンブールの観光範囲となるのは主に3つに地域に分けられるだろう。まず、北の黒海から南下してマルマラ海へ通じているボスポラス海峡によって、東のアジア側と西のヨーロッパ側に分かれる。そして西のヨーロッパ側はボスポラス海峡の出口近くで西北に向かって切れ込む金角湾で分断され、南が旧市街、北が新市街となっている。旧市街は観光の中心で、新市街は各国の領事館や高級ホテルが集まっている。アジア側は古い歴史を持つものの、新興住宅街を中心としているためか、ヨーロッパ側と比べると見所は少ない。

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