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アナトリア旅游15・エピローグ篇

15日目。
HOTEL AKÇINAREmek Hotelに比べると幾分新しいホテルなのか部屋もきれいで、嬉しいことに小さいながらもシャワールームとトイレが分かれていた。それともEmek Hotelはバックパッカー向けのホテルというだけのことだろうか?しかしながら朝食が「エクメック、チーズ、ゆで玉子、オリーブ、サラダ、チャイ」というコンチネンタル・スタイルであることはどこのホテルもそう大差ない。トルコの一般家庭でも毎朝このような朝食を食べているのか、それとも「伝統的な朝食」があるのかはナゾだ。

am10:27
ホテルのチェックアウトをし、けれども相変わらず荷物はフロントに預け、ついでに先日依頼した空港行きのシャトルバスの手配を確認して街へ出る。
夕方までにホテルに戻らなければ帰国できなくなってしまうのだ。今日は慌ただしい一日になりそうだ。

イスタンブール市内のバス停を横目に過ぎり、銀行へ米ドルを両替しに行く。
イスタンブール市内を走るバスのバス停はオトガルのようなバスステーションとは異なり、日本のバス停とはあまり変わらない。とはいっても日本ではこのようにバスが密集したバス停というのは駅前にある程度だが、ここはトルコだ。目の前に電車の姿はないw

イスタンブール市内


ひとまず買い物のメッカ(?)カパル・チャルシュことグランド・バザールへ   .

グランド・バザール


旅行者が「グランド・バザール」と呼ぶカパル・チャルシュ(Kapalı Çarşı)は、メフメット2世の時にイチ・ベデステン(İç Bedesten)とサンダル・ベズステン(Sandal Bedesten)の2つの市場が作られ、その周辺に商館が作られていったのが始まりだ。時代と共に規模が大きくなり、複雑な大バザールに変貌したのだとか。古くは奴隷の取引も行われていたらしいが、現在は専ら土産物屋群となっている。広さとしては東京ドーム3分の2ほどで、金・宝石、絨毯、衣類・革製品、アンティーク、雑貨などと大まかなブロックに分かれているらしいが、あまりにも広すぎて、そして迷路のように入り組んでいるのでさっぱり見当がつかない。しかも観光客が大挙して押し寄せてくるので落ち着いて商品を見るのが難しい・・・グランド・バザールでの買い物を諦めたMyrthaは早々にムスル・チャルシュに向かうのであった・・・

途中でみかけた日本ではもう見られない懐かしき看板。

Vodafone


エジプシャン・バザールことムスル・チャルシュ(Mısır Çarşısı)は、カシム・アーという人物が作り始めたが途中で中断されたものの、イエニ・ジャミィを作ったムスタファ・アーが1660年に完成させ、1943年の大改造で現在のような屋根付きのバザールになったという。元来はイエニ・ジャミィを維持するために建設されたのだとか。イエニ・ジャミィ建設に取り組んだ人々を対象にした露店がきっかけで出来たのだろうか?ここではエジプトのカイロから輸入された香辛料やハーブを主に扱っていたためにヨーロッパ人から「スパイス・バザール」とも呼ばれた。

ムスル・チャルシュ内には香辛料の他にチーズやナッツ、ドライフルーツ、菓子類、チャイなどの食品や小物などの生活感あふれる物がそろっている。グランド・バザールが観光地化された市場なら、こちらのエジプシャン・バザールは地元の人も訪れる市場といえる。きょろきょろと辺りを見てはふらりと店に入り、これはという物があればすぐさま購入する。とはいっても、荷物のカサと相談して買わねばならないのでそうそう簡単ではない。が、ここまで長期に亘る休暇をくれた上司を始めとする職場の人に感謝と留守中御迷惑おかけしましたというお詫びの気持ちを兼ねて何か買っていかねば・・・と考えてしまうのは恐らく私が日本人だからだろう。そんなわけでエジプシャン・バザール内では写真どころではなかったのだ。
「今度トルコに行くことがあったらば、ゆっくりバザール内の写真を撮ろう!」と思うMyrthaであった。

とりあえず購入した物は、ロクム(トルコ版ゆべしのような菓子)、ナザール・ボンジュウ(トルコのお守りの目玉)、エルマ・チャイ(トルコ版アップル・ティー)などなどなど。。。おっと、旅の記念にトルコ石のネックレスも購入しましたゾ。路上に落ちている石を拾っては、「はい、トルコ石♪」などと言ってくるポエ爺は無視して宝石店の店主と電卓を叩き合って価格交渉をするのだ。その間にチャイが振る舞われるのはいうまでもない。

一通り買い物をすませてすぐ隣にあるイエニ・ジャミィでひと休みする。

イエニ・ジャミィ


イエニ・ジャミィ(Yeni Camii)は新市街からバスなどによってガラタ橋を渡ってきた観光客が真っ先に目にする、人目に付きやすいが素通りされるモスクなのではあるまいか?
イエニとはトルコ語で「新しい」を意味する言葉で、イエニ・ジャミィとは「新しいモスク」ということになる。何でも大規模な古典的モスクとしてはこれが最も新しいのだとか。別名を「ヴァーリデ・モスク」という。「ヴァーリデ(Valide)」とは「皇帝の母」を意味する言葉であり、このモスクはその名の通りメフメット3世の母サフィエ・ハトゥンの発願により造営が開始されたという。サフィエ・ハトゥンはスレイマン大帝の孫のムラト3世の妃にあたり、夫の死後に造営を開始されたので皇帝の母になるというわけだ。

「なるほどね」などと納得していたら、完成までにもう少し複雑な事情があったらしい。
何でもサフィエの子のメフメット3世が1603年に他界し、孫のアフメット1世の時代になるとサフィエはハーレムを追われてしまい、工事が中断してしまったのだ。それから半世紀以上たった1660年にイブラヒム1世の妃で時の皇帝メフメット4世の母であったトゥルハンがモスク造営事業の継続を思い立ったという。工事を継続した人も皇帝の母であったので「帝母のモスク」というのだとか。落成は1661年から1663年にかけてといわれているが、現在は中庭や付属の建造物は失われてしまっているので観光コースからは外されてしまっているようだ。ここは地元の人々のためのモスクといえるだろう。

シャドルワンの近くにいたムスリムの女性。

イエニ・ジャミィ


宗教に寛容なトルコはムスリムの女性に「チャドル」と呼ばれる女性が外出の時に身に着けてきた体全体を覆う伝統的な黒系の衣装を強制しないが、イスタンブールの街中を歩いているとちらほらと見かけた。ポエ爺の話によると、数年前までは田舎で見かけることはあっても、イスタンブールのような都市部で見かけることはなかったという。政権分離を徹底させているトルコも年々イスラム色が強くなっているようだと憂慮するポエ爺であった。この国はアタテュルクの方針によって政教分離を徹底させてきたが、時の政権が宗教色を強めるとアタテュルクの後継者を自負する軍部が動き出すというのだ。他国のことはその国の人々が決めればよいとはいえ、お互いのためにも平和であってほしいと思うのであった。

手頃なファストフード屋で遅い昼食兼早めの夕食を済ませてホテルへ戻る。
購入した土産物をリュックサックにしまい、ホテル側の手配してくれたPick Up式のシャトルバスに乗り、小一時間ほど揺られているとアタテュルク国際空港に着いた。出国は驚くほどスムーズに、そしてあくまでもファジーに済み、21:45に無事KE956便はソウルに向かって離陸した。

さようなら、トルコ。
窓の外へ目をやると、天上の星と地上の星が飛行機を包み込むようにして瞬いていた。
星々に包まれながら、飛行機は静かに黒海へ進路を取っていった   .


※トルコ旅行ひとくちメモ
飛行機はこの後、ひたすら進路を東に取って進んでいった。夜食としてビビンバやわかめスープ、キュウリのキムチが出された後、食事が終わると機内は消灯時間となり、ひたすら眠り続ける状態に突入した。時折、窓の外を眺めると荒涼とした土地に太陽がさんさんと照りつけている。
am5:30。
朝食としてお粥やキムチが出され、7:36(現地時間13:36)に無事にソウルへ着いた。少々待ち時間が長いような気もするが、成田行きの便に乗って無事に帰国できた。飛行情報を告げる地図にあまりにも小さすぎるが故に記入する必要のない(と思われる)竹島のことを「ドクト」と書いてある辺りは「流石は韓国」といったところだろうか。帰国するのに2日を要したが、機内で眠っていたせいか、復路も往路と共に時差ぼけはせずにすんだ。

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