スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

李賀

李賀  り・が Li He
字    長吉
生没年 791~817
出身地 昌谷の人

 中唐の詩人。楚辞の流れを汲む怪奇美に満ちた幻想的な作品で知られ、その象徴的な表現は晩唐およびそれ以降の詩人たちに大きな影響を与えた。

 李賀は古来「鬼才」の名をもって呼ばれてきた。李白が天才、白居易が人才と呼ばれるのに対して李賀をこの名をもって呼ぶのは、北宋の随筆集『南部新書』に始まるとされる。中国における鬼(き)とはわが国におけるオニとは異なり、亡霊や物の怪を意味するが、李賀がこの名で呼ばれるのは、「蘇小小歌」など亡霊や物の怪をうたった詩人であるとされることによる。

 李賀が生まれたのは唐の徳宗の定元7年(791)、盛唐の大詩人・杜甫の没後21年後、韓愈24歳、白居易20歳の時である。「金銅仙人辞漢歌」の序に「唐の諸王孫李長吉」といっているように唐王室の出であるが、李賀の家は昌谷の地に若干の土地を所有する小地主にすぎなかったようだ。

 李賀の伝記の最も早いものの中に、李賀の家と親しい関係にあったらしい晩唐の詩人・李商隠の書いた「李長吉小伝」というものがある。それによると、李賀は「細痩通眉にして、指爪(しそう)を長くし」ていたという。「通眉」とは2本の眉が中ほどでつながっていたことをいう。また、「能く苦吟疾書」し、若くして詩名を知られ、当時の文壇における大家であった韓愈にその才能を認められていたともいう。

 元和5年(810)、20歳の時、李賀は河南府の推薦を得て科挙の試験のために長安に出て来ている。だが、そこで李賀を待っていたものは思いがけない妨害だった。李賀の父の名を晋粛といい、「晋」は「進」と同音だから進士科の試験を受けることは親の名を犯すことになるから試験を受けるべきでないという声が起こったのだ。韓愈は李賀のために「諱(いみな・死者の本名)の弁」という論文を書いて弁護している。しかしこの弁護は不成功に終わり、科挙の試験から締め出された李賀は失望のうちに故郷にもどっている。

 故郷にもどった李賀は毎朝、小奚奴(しょうけいど)を従えて驢馬に乗り、古びた錦の嚢を背負い、詩句が浮かぶとそれを紙片に書き留めてその嚢の中に投げ込み、一日山野をさまよっては日が暮れると家に帰り、それらの紙片を取り出して、足らぬところを補って詩を完成させたという。長篇の五言古詩「昌谷詩」はこのころの作品とされる。

 元和6年(811)頃、李賀はふたたび長安に出て来て奉礼郎の官についている。この官は従九品上という卑官で、その職掌とするところは朝会や祭礼に関する仕事である。元和8年春、李賀は病気を理由に官を辞し、昌谷にもどるもその年の冬の始めには洛陽の皇甫を尋ねている。ついでふたたび上京して長安で年を越し、翌年は友人の張徹をたよって山西に赴き、1~2年の滞在の後にまた昌谷にもどり、元和12年(817)、故郷の昌谷で27年の生涯を終えている。

 失意の情を裏面にひめ屈折した表現の詩句はきわめて難解でだが、きらびやかな色彩感に富む詩句に盛られた冷ややかな悲哀感と憂憤の情は、李賀詩を読む人々を魅了せずにはいられない。「雁門太守行」「神絃曲」 「李憑箜篌引」などの楽府体の詩に彼の特色がよく示されている。

 李賀の詩で今日に伝わるものは本集219首、外集22首の全部で241首であるとされているが、外集22首は偽作という説もある。

 魯迅や毛沢東は李賀の愛好家であったという。唯美的・耽美的ともいえる李賀の詩が革命家に愛されたのは何故だろうか。
 そういえば以前、岳堂先生に「若い人は李賀を読んじゃダメ」と言われたことがありましたわなぁ    .
2004.10.31

コメント

コメントの投稿




URL:

Comment:

Pass:

 管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。