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杜牧

杜牧 と・ぼく Du Mu
字 牧之
生没年 803~852
出身地 京兆府万年の人

 江南の美しい自然や華やかな町,酒,歌,遊びにあけくれ、風流才子の名をほしいままにした晩唐第一の詩人。

 杜牧、字は牧之は、唐の貞元19年(803)に杜従郁の次男として京兆府(現・陝西省西安)に生まれた。杜牧の祖父は、徳宗・順宗・憲宗と三代にわたって宰相を務め、『通典』を著した杜佑(735~812)、遠祖には西晋の杜預(どよ・222~285)がおり、由緒ある名門であった。
 元和7年(812)10歳の時、宰相を務めた祖父・杜佑が没した。さらに18歳にして父・従郁を失うと、杜牧の一家はたちまち困窮し、住居は借財のために人手にわたり、8年間に10回も転居したという。

 元和15年(820)、憲宗が宦官によって弑され、穆宗の長慶年間(821~824)をむかえ、16歳の敬宗が即位した。敬宗の宝暦元年(825)、23歳の杜牧は「阿房宮賦」を作った。
 翌年12月、敬宗が宦官によって弑され、あとを継いで即位した文宗の太和2年(828)正月、26歳の杜牧は洛陽で科挙の進士科に受験し、進士第5位に及第する。そして同年、吏部の関試を突破し、さらに太和2年(828)閏3月、長安で賢良方正・能直言極諫科を受けて及第し、門下省の弘文館校書郎を授けられ、左武衛兵曹参軍に試用された。

 同年10月、江西観察使の沈伝師(しんでんし)の幕下に招かれて洪州(江西省南昌)に赴き、その後数年を沈伝師とともに洪州・宣州の地に江西団練府巡官として努めた。
 太和7年(833)、沈伝師の命によって揚州の淮南節度使・牛僧儒を訪ねた。太和7年4月沈伝師が吏部侍郎として中央にもどると、杜牧は牛僧儒の幕下で淮南節度掌書記となり、以後2年間を揚州で過ごした。
 この地で杜牧は後年、彼自身が「揚州の夢」といって懐かしむ風流三昧の日々を過ごすことになる。

 太和9年(835)、監察御史として長安に戻り、ついで監察御史・東都分司として洛陽に赴く。開成2年(837)、将来を嘱望していた4歳年下の弟・杜(とぎ)の眼病が悪化し、ついに失明した。当時35歳の杜牧は以後15年にわたって、杜一家の世話をすることとなる。崔鄲の幕僚になって再び宣州に赴いたのも、百日休暇の期限をこえたために監察御史・東都分司を解任されたためだともいわれる。

 開成4年(839)初春、上京して左補闕・史館修撰となり、膳部員外郎・史館修撰などを経た後、会昌2年正月、黄州刺史(現湖北省黄岡市・刺史は州知事)となった。以後、2年おきに池州(現安徽省貴池市)、睦州(現浙江省建徳市の東)の刺史に転任した。このころ、朝廷では牛李の党争が激化していた。

 大中2年(848)晩秋、睦州を離れて長安に戻り、司勲員外郎・史館修撰となり、そののち吏部員外郎を経て、大中4年(850)、みずから願い出て湖州刺史に転出した。これは眼病を患い揚州で療養中の弟や未亡人となった妹の一家などの世話をするために収入の多い地方官を求めたことによるようだ。湖州刺史は顔真卿が80年前に就いたポストである。当時、杜牧は消渇(しょうかつ・糖尿病)を患い、できるだけ飲酒を慎み、養生の茶を飲んでいたという。

 大中5年(851)、考功郎中・知制誥となって帰京する。この年、牛僧儒や最愛の弟・杜があいついで没した。翌年の大中6年、杜牧は中書舎人(詔勅の起草)に任命された。死を予知したのかみずから「自撰墓誌銘」を書き、詩文の整理をした。12月ごろ長安の安仁坊の自宅で病没した。

 杜牧の詩は彼の死後、姉の嫁いだ裴儔の子・裴延翰が、『沮川集』20巻(前の4巻は詩、後の16巻は文)を編纂し、大中9年(855)ころ、後序を書き終えて完成させた。これが今日伝存する杜牧集の祖本になる。その後、唐末ごろに編者未詳の『沮川外集』1巻(詩のみ)が編纂され、続いて北宋の熙寧6年(1073)の自序を有する田概編『沮川別集』1巻(詩のみ)が編纂された。これが『杜牧集』の根幹を成す三種の伝である。

 同姓の杜甫を老杜と呼び、杜牧を小杜と呼ぶこともある。因みにある調べによると、日本人の好む漢詩の第2位に杜牧の「江南春」が入り、第12位に「山行」が入っているという。第1位は、言わずもがな、杜甫の「春望」である。

2004.12.25

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