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李商隠

李商隠 り・しょういん Li Shang-yin
字    義山 
号    玉谿生(ぎょくけいせい)
生没年 812頃~858頃
出身地 懐州河内の人

 晩唐の詩人。古今に冠絶する恋愛詩の名作を数多く残すも、詩の難解さにおいては李賀に劣らない。駢文家としても有名。

 宋の楊億(978~1020)の雑記『談苑』に、李商隠は文章を作る時に「多くの書冊を簡(えら)び閲(けみ)し、左右に鱗次して、獺祭魚(だっさいぎょ)と号し」たという一文がある。魚を捕らえたカワウソがそれを食べる前に岸上に羅列する(『礼記』月令篇)様子に喩えるこの逸話は、彼の詩の性質と創作方法を象徴している。

 時に自らを書痴とも称する李商隠の詩の分かりにくさは、まず典故の多さがあげられる。元来、伝統重視の精神に育まれた典故の技術は、権威ある基礎的教養書である四書五経や『荘子』『史記』『漢書』などに含まれる語彙や人物事跡にその範囲は限定されていた。ところが彼の詩は稗史小説類にのみ語り伝えられる事柄を堂々と比喩に借り、事柄ばかりかその発想をも大胆に詩に取り入れている。

 また、彼の把えにくさは、ひとつの規定で彼をしばることのできない点にもある。彼の言わんとする志は、過去と現在、架空と現実、その他さまざまの異質なものが畳みかけるように同次元に羅列され、夥しい典故に隠蔽される故に卒読しては意味を了解しがたい。たとえば即興の詠物詩などにおいても題に与えられている花鳥の姿が、詩の表面のどこにも現れないということがしばしばおきている。

 そして最大の理由は、李商隠のおかれていた立場にあるだろう。読書人=政治家であった当時、李商隠も官途についた。進士に及第していたにもかかわらず、官界において一生不遇だったのは、「牛李の党争」とよばれる進士及第者の牛僧儒派と貴族派の李徳裕派による政争の激しさにある。

 幼くして父を失った李商隠は初め、牛党の大物・令狐楚の知遇をうけ、駢儷文に手を染めた。進士に及第後まもなく令狐楚が死ぬと、官につけなかった彼は李党の幹部・王茂元に認められるままに庇護を求め、才能あるが故に認められて娘婿となり官についた。王茂元の死後、令狐楚の子令狐綯に憎まれて進退に窮し、李徳裕派の鄭亞の掌書記となるも、宣宗の世に鄭亞が左遷にあうと李商隠は帰京し、やがて武寧軍節度使盧弘正の判官として徐州へ赴く。盧弘正の死後、再び京に帰って令狐綯に懇願し、名ばかりの太学博士の官をえた。同年、東川節度使柳仲郢の書記として東川の幕府に赴く。この間に彼は妻王氏を失っている。この頃から李商隠は身辺の風景や日常の瑣事に深く注意を配り始めるようになる。そして大中年間(847~859)のある年に失職して故里への旅の途次、または帰りついて間もなく没した。

 北宋の真宗の時に宰相の楊億が李商隠を酷愛し、銭惟演ら17人と李商隠の詩を模擬して唱酬し、「西崑酬唱集」という題にまとめ西崑体と号するにあったて、彼の詩は一世を風靡した。しかし、彼の文学が正当な理解をうるのは真宗に仕え、新法による改革者であり唐宋八家の一人である王安石(1021~1086)によって、李商隠の詩が杜甫に踵を接する深い人間洞察を含み、華麗な表現の奥に誠実さが常に底流することを指摘され、以後、多くの詩の評論家がこの見解に同意してからのことだった。李商隠は杜牧とともに晩唐の李杜とも呼ばれる。

 李商隠の残した文集は「樊南甲集」20巻、「乙集」20巻、「玉谿生詩」3巻、それに賦1巻と文1巻があるが文集は宋代に一度散逸してしまったため、現在見られる文集は明以降に拾集編纂されたのものである。

 正岡子規が「獺祭書屋主人」と号したのは李商隠を意識してのことだろうか?

コメント

「ティェンタオの自由訳漢詩」ー「漢詩を楽しもう」というブログで李商隠を連載しています。できたらご覧ください。

>tiandaoさん

貴Blogを拝見しました。
漢詩について、長期にわたって書かれているのですね。
ほぼ毎日に亘る更新は大変なことと思いますが、これからも無理のない程度に続けて下さいませ。

ところで、「tiandao」は「天道」の普通話読みということでよいのでしょうか?

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