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パフェのお味

ちょっくら帰国中に興味深いイベントをやっていたので、行ってきた。

なんでも、パセラ・リゾートで宇宙戦艦ヤマト2199のコラボメニュー[魚拓]を8月24日〜9月23日の間に新宿本店・池袋本店・上野御徒町店・渋谷店・横浜関内店・秋葉原電気街店・秋葉原昭和通り店で限定的に行う、とのこと。

ヤマト好き的には行きたいでしょ♪と言うわけで行ってみた。
通された部屋のテーブルの上にはドドーンとヤマトのメニューが置かれている。

マゼランパフェ


干上がった地球と遊星爆弾をイメージした「遊星爆弾カレー」や、アステロイドベルトをイメージした「アステロイ丼」、ヤマト食堂の「冷製海王星パスタ」なんてものがある。
あれ?ヤマトの食堂に宇宙海軍カレーはあったと記憶しているけれど、海王星パスタなんてあったかしら?

裏はこんな感じ。
おなじみの古代進&森雪のイラストと共に、マゼランパフェとドリルミサイル・ハニトーがかかれている。

マゼランパフェ


ハニトーも捨てがたいが、今回はあのメルダ・ディッツさんをして「宇宙にこんな美味しいものがあったとは!」と言わしめたマゼランパフェを注文してみる。

テキトーに拾ってきたコスモ女子会の画像↓
ひたすらパフェをぱくついているユリーシャさんは、地球滞在中にパフェの味を知ってお気に召したのだろうか?
コスモ女子会



しばしの時間を待ち、来たものがコレ。
想像していた物より大きいゾ。無事に完食できるのか不安になってくる。。。

マゼランパフェ


一回転してみる。
うーん、何が入っているのだろう?

マゼランパフェ


崩れ落ちないように細心の注意を払って食べた結果、上から順に、イチゴ、ミントの葉、ホイップクリーム、バニラアイス、ブルーベリー風味のヨーグルトホイップクリーム(?)、ホイップクリーム、バニラアイス、ホイップクリーム、アプリコットソース、またホイップクリームにブルーベリージャムの周囲にグレープフルーツ、オレンジ、イチゴ、バナナ、クッキー、が飾られ、ブリーベリーや星形やハート型のゼリー状がちりばめられて、最後にベリー系のソースがかけられている物であるらしい。

なんとか無事に完食。ご馳走様でした(-人-)

マゼランパフェ


これだけで一食分に相当するほど大きく感じられた。
店内にあるメニューの食事を食べた後に、このパフェを完食できる人はいるのだろうか?

なお、ヤマトのコラボメニューだけではなく、逆転裁判とのコラボも行っている模様。
「異議あり!」と叫んでみたい人は、こちらを注文してみると良いだろう。

パセラ・逆転裁判


何年ぶりだか忘れるほど久しぶりにパフェを食べたMyrthaは、「パフェって、こんなに甘かったかしら?血液中のすみずみに糖分が行き渡っている感じがするゾ☆」とオマヌケな感想を抱きましたとさ。

それにしても、パセラって、カラオケ店だったのですねぇ。
生まれて初めてカラオケ店に入りましたよ。。。
ゑ?誰かと一緒に行ったのかですって?!
リア充なんて爆発してしまえっ!


パセラリゾートの宇宙戦艦ヤマト2199のコラボメニューについてはこちら[魚拓]

05/16のツイートまとめ

Reine_Myrtha

南京の某学会誌に私の詩が載っている・・・まさか本当に載るとは・・・(-_-;)
05-16 23:15

灯台もと暗し

かなり前に世界地図を見て指定された国の場所を当てるゲームというものを紹介したのだが、これの日本国版があったのでやってみた。

やり方はとても簡単で、「START」ボタンをクリックして   .

都道府県


下部の黒帯状の所に何らかの文字が現れるので、当てはまる都道府県をマウスでクリックするだけ。

都道府県


「神戸のあるのは兵庫県である」とか、「こしひかりは新潟の特産」というように有名どころはわかるのだが   .

都道府県


「火の国」などと言われてもさっぱり見当もつかず   .

都道府県


「皿鉢料理」に到ってはもはや「ナニソレ。植木鉢に料理を盛るの?」状態だ(-_-;)

都道府県


そんなこんなでも、何とか60点以上(大学で言うところの「可」だね)がとれたので、まあ良しとしておこう。
自国の事って、以外と知らないものだね^^;

都道府県




「私は日本のことに詳しい『日本オタク』だ」という方は、一度お試しあれ♪
都道府県当てゲームをやってみる

竹愛でる人

少しばかり前の話になるが、驚かされた本がある。
それがこちらの本である。

此君   

  書  名: 此君 日原傳句集
  シリーズ :ふらんす堂精鋭俳句叢書. Serie de la lune
  版  次: 2008.09.27第1刷
  著  者: 日原 傳
  出版者: ふらんす堂
  出版地: 東京都
  出版年: 2008.09.27
  形  態: 171p,19cm
  I S B N: 978-4-7814-0078-5
  価  格: ¥2400+税


  t1.シクン t2.ヒハラ ツタエ クシュウ
  a1.ヒハラ ツタエ s1.俳句 分類番号911.368




~目次~








あとがき


日原傳氏といえば、「ひとりで静かに日本酒を嗜み、侘び・さびの世界を漢詩でもって表現する人」といったイメージが強かったのだが、今回この本を読んでその観察眼の鋭さに驚かされた。試みに「自選十五句」を挙げて見ようか。


まんさくは頬刺す風の中の花

てのひらの集まつてくる踊かな

鹿散つて僧の行列見てをりぬ

外套は神話の如く吊られけり

葉桜のころの奉納相撲かな

難しく幹にとまりて囀れり

長城の切れ端を目に秋耕す

蟋蟀の跳べば親しき黄河かな

空飛んで来たる顔せず浮寝鳥

いきほひの出て真直ぐに蛇泳ぐ

出入口なき虫籠を編む男

ある人は膝を抱へて涼みけり

伝言を巫女は菊師にささやきぬ

青柿のほとりの水の迅さかな

朧夜の冬虫夏草沈む酒



俳句のことはトンとわからぬ門外漢でもこれは断言できる。
これはすごい、と。
短歌や俳句は母国語である日本語で作れるが故に、どうしても「俗」に陥りやすいのであるが、この句集にはそういった句は見あたらず、また、題材も日本の風景のみならず、日々の我が子とのふれあいや、イスラム世界や中国の風景などの多岐にわたり、飽きることがない。

今回の句集は「重華」「江湖」につづいて3冊目になるらしい。以前刊行された2冊は読めずじまいであるが、第32回俳人協会新人賞を受賞されたというこの「此君」を読めたことは幸いである。

なお、「此君」とは竹をこよなく愛する王徽之(おうきし・書聖王羲之の子)が竹を指さして「何ぞ一日も此の君無かるべけんや」と言ったという故事による。興味のある方は六朝貴族の小話を集めた『世説新語』の任誕篇をご一読あれ♪

アナトリア旅游16・後日談篇

数日後、ポエ爺からの手紙が届いた。
日付を見ると8月11日とあり、どうやら旅行中に書かれたものらしい。
特に長々とした文章は書かれておらず、漢詩が一首だけ書かれていた。


       客 中 即 事              旅先での即興

   千 山 萬 水 白 雲 程    千山 万水 白雲の程(てい=みち)

   客 旅 應 牽 遊 子 情    客旅 応(まさ)に牽(ひ)くべし 遊子(ゆうし)の情

   探 興 東 西 南 北 路    興を探る 東西南北の路(みち)

   年 年 連 轡 共 君 行    年年 轡(くつわ)を連ねて君と共に行かん


詩の大意は、「良い旅行だったね。また一緒に旅に出よう!」ということになろうか。
こちらこそ、ポエ爺あってこその、良い旅でした(-人-)
Teşekkür ederim!(テッシェキュル・エデリム,ありがとうの意)


※トルコ旅行ひとくちメモ
海外からパソコンを使ってメール送信などの文字入力をするときに問題になるのが日本語の文字変換だ。適当に日本語サイトにアクセスしてコピー&ペーストによって入力するという方法もあるが、下記のサイトを使ってみるという方法もある。
Ajax IME: Web-based Japanese Input Method
Ajax を使った手書き文字認識
Sumibi.org ローマ字を日本語に変換できる無料サイト
また、可能ならばパソコンに日本語入力可能な方法を教えるという方法ある。それはwindowsXPの場合、以下の設定で出来るハズだ。
・「コントロールパネル」→「地域と言語のオプション」→「詳細設定」→「使うUnicode対応でないプログラムの言語バージョンに一致する言語云々」→「日本語に指定」→(「10001(MAC - 日本語)」「20290(IBM EBCDIC - 日本語 カタカナ拡張)」 にチェック)→「適用」→「OK」

アナトリア旅游15・エピローグ篇

15日目。
HOTEL AKÇINAREmek Hotelに比べると幾分新しいホテルなのか部屋もきれいで、嬉しいことに小さいながらもシャワールームとトイレが分かれていた。それともEmek Hotelはバックパッカー向けのホテルというだけのことだろうか?しかしながら朝食が「エクメック、チーズ、ゆで玉子、オリーブ、サラダ、チャイ」というコンチネンタル・スタイルであることはどこのホテルもそう大差ない。トルコの一般家庭でも毎朝このような朝食を食べているのか、それとも「伝統的な朝食」があるのかはナゾだ。

am10:27
ホテルのチェックアウトをし、けれども相変わらず荷物はフロントに預け、ついでに先日依頼した空港行きのシャトルバスの手配を確認して街へ出る。
夕方までにホテルに戻らなければ帰国できなくなってしまうのだ。今日は慌ただしい一日になりそうだ。

イスタンブール市内のバス停を横目に過ぎり、銀行へ米ドルを両替しに行く。
イスタンブール市内を走るバスのバス停はオトガルのようなバスステーションとは異なり、日本のバス停とはあまり変わらない。とはいっても日本ではこのようにバスが密集したバス停というのは駅前にある程度だが、ここはトルコだ。目の前に電車の姿はないw

イスタンブール市内


ひとまず買い物のメッカ(?)カパル・チャルシュことグランド・バザールへ   .

グランド・バザール


旅行者が「グランド・バザール」と呼ぶカパル・チャルシュ(Kapalı Çarşı)は、メフメット2世の時にイチ・ベデステン(İç Bedesten)とサンダル・ベズステン(Sandal Bedesten)の2つの市場が作られ、その周辺に商館が作られていったのが始まりだ。時代と共に規模が大きくなり、複雑な大バザールに変貌したのだとか。古くは奴隷の取引も行われていたらしいが、現在は専ら土産物屋群となっている。広さとしては東京ドーム3分の2ほどで、金・宝石、絨毯、衣類・革製品、アンティーク、雑貨などと大まかなブロックに分かれているらしいが、あまりにも広すぎて、そして迷路のように入り組んでいるのでさっぱり見当がつかない。しかも観光客が大挙して押し寄せてくるので落ち着いて商品を見るのが難しい・・・グランド・バザールでの買い物を諦めたMyrthaは早々にムスル・チャルシュに向かうのであった・・・

途中でみかけた日本ではもう見られない懐かしき看板。

Vodafone


エジプシャン・バザールことムスル・チャルシュ(Mısır Çarşısı)は、カシム・アーという人物が作り始めたが途中で中断されたものの、イエニ・ジャミィを作ったムスタファ・アーが1660年に完成させ、1943年の大改造で現在のような屋根付きのバザールになったという。元来はイエニ・ジャミィを維持するために建設されたのだとか。イエニ・ジャミィ建設に取り組んだ人々を対象にした露店がきっかけで出来たのだろうか?ここではエジプトのカイロから輸入された香辛料やハーブを主に扱っていたためにヨーロッパ人から「スパイス・バザール」とも呼ばれた。

ムスル・チャルシュ内には香辛料の他にチーズやナッツ、ドライフルーツ、菓子類、チャイなどの食品や小物などの生活感あふれる物がそろっている。グランド・バザールが観光地化された市場なら、こちらのエジプシャン・バザールは地元の人も訪れる市場といえる。きょろきょろと辺りを見てはふらりと店に入り、これはという物があればすぐさま購入する。とはいっても、荷物のカサと相談して買わねばならないのでそうそう簡単ではない。が、ここまで長期に亘る休暇をくれた上司を始めとする職場の人に感謝と留守中御迷惑おかけしましたというお詫びの気持ちを兼ねて何か買っていかねば・・・と考えてしまうのは恐らく私が日本人だからだろう。そんなわけでエジプシャン・バザール内では写真どころではなかったのだ。
「今度トルコに行くことがあったらば、ゆっくりバザール内の写真を撮ろう!」と思うMyrthaであった。

とりあえず購入した物は、ロクム(トルコ版ゆべしのような菓子)、ナザール・ボンジュウ(トルコのお守りの目玉)、エルマ・チャイ(トルコ版アップル・ティー)などなどなど。。。おっと、旅の記念にトルコ石のネックレスも購入しましたゾ。路上に落ちている石を拾っては、「はい、トルコ石♪」などと言ってくるポエ爺は無視して宝石店の店主と電卓を叩き合って価格交渉をするのだ。その間にチャイが振る舞われるのはいうまでもない。

一通り買い物をすませてすぐ隣にあるイエニ・ジャミィでひと休みする。

イエニ・ジャミィ


イエニ・ジャミィ(Yeni Camii)は新市街からバスなどによってガラタ橋を渡ってきた観光客が真っ先に目にする、人目に付きやすいが素通りされるモスクなのではあるまいか?
イエニとはトルコ語で「新しい」を意味する言葉で、イエニ・ジャミィとは「新しいモスク」ということになる。何でも大規模な古典的モスクとしてはこれが最も新しいのだとか。別名を「ヴァーリデ・モスク」という。「ヴァーリデ(Valide)」とは「皇帝の母」を意味する言葉であり、このモスクはその名の通りメフメット3世の母サフィエ・ハトゥンの発願により造営が開始されたという。サフィエ・ハトゥンはスレイマン大帝の孫のムラト3世の妃にあたり、夫の死後に造営を開始されたので皇帝の母になるというわけだ。

「なるほどね」などと納得していたら、完成までにもう少し複雑な事情があったらしい。
何でもサフィエの子のメフメット3世が1603年に他界し、孫のアフメット1世の時代になるとサフィエはハーレムを追われてしまい、工事が中断してしまったのだ。それから半世紀以上たった1660年にイブラヒム1世の妃で時の皇帝メフメット4世の母であったトゥルハンがモスク造営事業の継続を思い立ったという。工事を継続した人も皇帝の母であったので「帝母のモスク」というのだとか。落成は1661年から1663年にかけてといわれているが、現在は中庭や付属の建造物は失われてしまっているので観光コースからは外されてしまっているようだ。ここは地元の人々のためのモスクといえるだろう。

シャドルワンの近くにいたムスリムの女性。

イエニ・ジャミィ


宗教に寛容なトルコはムスリムの女性に「チャドル」と呼ばれる女性が外出の時に身に着けてきた体全体を覆う伝統的な黒系の衣装を強制しないが、イスタンブールの街中を歩いているとちらほらと見かけた。ポエ爺の話によると、数年前までは田舎で見かけることはあっても、イスタンブールのような都市部で見かけることはなかったという。政権分離を徹底させているトルコも年々イスラム色が強くなっているようだと憂慮するポエ爺であった。この国はアタテュルクの方針によって政教分離を徹底させてきたが、時の政権が宗教色を強めるとアタテュルクの後継者を自負する軍部が動き出すというのだ。他国のことはその国の人々が決めればよいとはいえ、お互いのためにも平和であってほしいと思うのであった。

手頃なファストフード屋で遅い昼食兼早めの夕食を済ませてホテルへ戻る。
購入した土産物をリュックサックにしまい、ホテル側の手配してくれたPick Up式のシャトルバスに乗り、小一時間ほど揺られているとアタテュルク国際空港に着いた。出国は驚くほどスムーズに、そしてあくまでもファジーに済み、21:45に無事KE956便はソウルに向かって離陸した。

さようなら、トルコ。
窓の外へ目をやると、天上の星と地上の星が飛行機を包み込むようにして瞬いていた。
星々に包まれながら、飛行機は静かに黒海へ進路を取っていった   .


※トルコ旅行ひとくちメモ
飛行機はこの後、ひたすら進路を東に取って進んでいった。夜食としてビビンバやわかめスープ、キュウリのキムチが出された後、食事が終わると機内は消灯時間となり、ひたすら眠り続ける状態に突入した。時折、窓の外を眺めると荒涼とした土地に太陽がさんさんと照りつけている。
am5:30。
朝食としてお粥やキムチが出され、7:36(現地時間13:36)に無事にソウルへ着いた。少々待ち時間が長いような気もするが、成田行きの便に乗って無事に帰国できた。飛行情報を告げる地図にあまりにも小さすぎるが故に記入する必要のない(と思われる)竹島のことを「ドクト」と書いてある辺りは「流石は韓国」といったところだろうか。帰国するのに2日を要したが、機内で眠っていたせいか、復路も往路と共に時差ぼけはせずにすんだ。

アナトリア旅游14・イスタンブール再び篇(下)

14日目。
朝早く   とはいってもビジネスマンはとっくに働きに出ている時間だが   折角なので他のホテルにも泊まってみよう!ということで、Emek Hotelを出てHOTEL AKÇINARへ引っ越しをしてからガラタ橋界隈名物のサバサンドを食べに行く。

サバサンドは三枚おろしにしたサバに塩胡椒をふって鉄板焼きにしたものをレタスやトマト、玉ねぎと一緒にエキメックに挟み、レモン汁をかけたシンプルなサンドイッチだ。以前は釣ったサバを船上で調理・販売していたが、衛生面などの理由により規制されてしまい、現在は船上販売は観光用としてわずかに残っているのみで、店舗で売られていることが多いようだ。
「三枚おろしにした魚といえば網焼き」と考えてしまうのが日本人だが、こうして塩胡椒を振って鉄板焼きにしたサバもなかなか美味しい。味はサバというよりもアジに近いような気もするが、そんなことは気にもかけずにこの美味なるサンドイッチをほおばっていたら、写真を取り忘れてしまった_| ̄|○

そのような訳で、どのような食べ物下記になる方は、現地に飛ぶか、ガイドブックを見に書店へ行くか、Magic氏のトルコ旅行記7-1 サバサンドを読むかをして下さい。
Magic氏は2009年の冬にトルコへ行かれたようで、ご自身のBlog「三度目の世界征服」でトルコ旅行についてを書かれているのだ。Myrthaの旅行期間とは対照的な季節のトルコを写真で見られるのでなかなか興味深いものがありますゾ。
因みにサバサンドは飲み物付きで3YTLナリ。

腹も満ち満ちたところでガラタ橋を渡って新市街へ   .
新市街のシシャネからレトロな路面電車に乗り、終点のタクシム広場(Taksim Meydanı)へ向かう。

タムシム広場


タクシムとはアラビア語で「分割・分配」を意味し、オスマン帝国時代に都市の各方面に水を送る分水設備があったことに由来するそうな。現在は広場中央に1928年に完成した共和国記念碑が建ち、トルコの近代化を推進した共和国初代大統領ケマル・アタチュルクの銅像がある。ここから南西方向に向かって歩くとイスティクラル通り(İstiklâl Caddesi)がある。

イスティクラル通り


イスティクラル通りはイスタンブールきっての繁華街で、ブランド・ショップやブティック、カフェ、各国領事館などが建ち並び、歩行者天国になっている通りを先ほど乗っていた路面電車が通り過ぎていく。買い物好きな女性はもちろんのこと、ウィンドウ・ショッピングだけでも楽しい一角だ。買い物に無関心なポエ爺は・・・あえて語るまいw

イスティクラル通りを南下してアタテュルク橋を渡り、ヴァレンス水道橋(Valens Kemeri/Bozdoğan Kemeri)へ   .

ヴァレンス水道橋


ヴァレンス水道橋はビザンティン皇帝・コンスタンティヌス1世の時に工事を着工し、ヴァレンス帝の378年に完成したといわれている。イスタンブールはローマのように7つの丘をもつといわれるほど起伏に富んだ街なので、その丘と丘あいだを架け渡して水を通すためにこの二層アーチの水道橋が作られたという。よく壊されずに残ったものだと思ってしまうが、実はオスマン・トルコ時代にも使われていたらしい。使える物は使ってしまえという発想なのか、歴代スルタンに狂信的な人物がいなかっただけなのか、いずれにせよ、このある種の大らかさが六百余年の長期に亘る広範囲な帝国統治を可能にしたのだろう。

街中の一角で見かけたブランコ遊びをする子供。

イスタンブール内の公園


幼子がきゃっきゃとはしゃぐほほえましい様子、ではなくて、ブランコ本体を見てみると微妙に形が日本とは異なっている。まずは座るところは板状ではなく箱状になっており、次に足の部分には転落防止ガードが取り付けられている。つまり、これは箱の中に座れる大きさの人しか使えないということになる。日本の青春ドラマのようにイイトシした人がブランコをこぐ、または座る、ということが出来ない仕組みになっているのだ。トルコではブランコに座るのは幼児だけなのか?

世界遺産に登録されているイスタンブール歴史地区は4つの保護地域からなる。トプカプ宮殿やアヤソフィア、ブルー・モスクのある「遺跡公園地区(スルタンアフメト地区)」、ゼイレク・ジャミィを中心とした「ゼイレク・モスク地区」、テオドシウスの城壁やカールエ博物館(コーラ修道院)のある「大城壁地区」、そしてスレイマニエ・ジャミィのある「スレイマニエ・モスク地区」だ。

スレイマニエ・ジャミィ


スレイマニエ・ジャミィ(Süleymaniye Camii)はオスマンから数えて第十代目皇帝であったスレイマン1世(在位1520~1566)の時に作られた大モスクだ。
オスマン・トルコ帝國六百余年の歴史の中では36人の皇帝が在位したが、スレイマン1世ほど長く在位した皇帝はおらず、この皇帝の統治した46年が帝國の黄金時代であった。トルコ人はスレイマン1世のことを「カヌーニ(立法者)」と異名で呼ぶことが多く、西洋では「Süleyman the Magnificent」と呼ぶそうな。日本ではスレイマン大帝と呼ばれている皇帝だ。

このオスマン帝国の黄金時代を統治したスレイマン大帝が在位30年にあたる1550年から建設が始まり、7年の歳月をかけて建設されたモスクは、本堂が69メートル×63メートルあり、中央の高さ53メートルのところに直径27.25メートルで32の窓を持つドームがあり、さらに東西にそれぞれ半ドームが作られている。メッカの方角を示すミフラープに取りつけられている美しいステンドグラスは創建当時のものであるという。
また、モスクには6つの学校や研究所、病院、救貧院、無料給食接待所、浴場、キャラバン・サライ(隊商宿)、商店などの付属施設がある。ミナレットは4基あり、その内の2つは2つの廻廊をもち、残りの2つは廻廊が三層になっており、この4基のミナレットはスレイマン大帝がイスタンブールに居を定めたファティフ以来4番目の皇帝であることを示している。廻廊は合わせて10になるが、これはスレイマン大帝がオスマン・トルコ帝國の第10代皇帝であることのシンボルであるという。

スレイマニエ・ジャミィの一角。
礼拝の時間を告げるアザーンを流す塔・ミナレットと廻廊の一部だが、中央の身を清めるための泉水であるシャドルワンの横にいる人と比較してみるとその大きさがわかる。

スレイマニエ・ジャミィ


スレイマニエ・ジャミィは現在も礼拝所として使われており、礼拝時間中は異教徒は中へ入ることが出来ないが、それ以外の時間は一般公開されている。この辺りの大らかさはトルコならでは、といったところだろうか。
しばしの時間を待ち、中へ   .

スレイマニエ・ジャミィ


礼拝が終わってイスラム教徒のいなくなった内部は静かではあるが、どこか温かみのある雰囲気であった。三々五々に解散した人々の中には礼拝場の片隅に集まって世間話に花を咲かせる人や、熱心に祈りを捧げ続ける人もいる。モスクは礼拝所としての機能以外に人々の語らいの場としての機能も果たしているようだ。

スレイマニエ・ジャミィの境内の一角にはこの大モスクを作ったミマル・シナンの墓がある。

ミマル・シナン墓


100歳近くまで生きたシナンはスレイマン大帝の他にセリム2世やムラト3世にも仕え、オスマン帝国最高の建築家として知られている。スレイマニエ・ジャミィの他に、シェザーデ・メフメット・ジャミィ(通称シェザーデ・ジャミィ)や神学校、隊商宿、橋梁、墓廟など500にも亘る建築物を手がけたという。
現在残されているシナンの墓は後世の改修があまりにも大きく、些か残念なことであるが原形をとどめていないらしい。

旧市街のギュルハネからガラタ橋を渡って新市街のタクシム広場へ行き、イスティクラル通りを南下してアタテュルク橋を渡って再び旧市街に入り、アタテュルク通りにかかるヴァレンス水道橋を眺めてローマ帝国に思いを馳せ、スレイマニエ・ジャミィを堪能してスレイマン大帝の威光を偲ぶ。一日中歩き通しで心地よい疲労を感じたMyrthaは街中のレストランへ入った。

ウズカラ・キョフテ


レストランに入って好物になったウズカラ・キョフテ(Izgara köfte)を頼み、「そういえばまだ一度も飲んだことがなかったナ」とトルコの蒸留酒・ラク(RAKI)も注文すると、大いに驚かれた。この店でラクを頼んだ女性はMyrthaが初めてなのだろうか   


※トルコ旅行ひとくちメモ
イスタンブールの観光範囲となるのは主に3つに地域に分けられるだろう。まず、北の黒海から南下してマルマラ海へ通じているボスポラス海峡によって、東のアジア側と西のヨーロッパ側に分かれる。そして西のヨーロッパ側はボスポラス海峡の出口近くで西北に向かって切れ込む金角湾で分断され、南が旧市街、北が新市街となっている。旧市街は観光の中心で、新市街は各国の領事館や高級ホテルが集まっている。アジア側は古い歴史を持つものの、新興住宅街を中心としているためか、ヨーロッパ側と比べると見所は少ない。

一期一会と絆とsweetなこころ

震災後初めてのバレンタイン・デーということもあってか、テレビでは盛んに「今年のバレンタインのテーマは絆!家族や友人にチョコを贈りましょう♪」と放送していますが、実際の所はどうなのでしょうか?
サテ、今年も全国の獨男・喪女・非モテ並びに弊日記の愛読者のみなさまにMyrthaより愛をこめてチョコレートをお届けします。

今年はオーストリアはザルツブルクにあるBerger社のシャンパン・ローズ(No.2305)をチョイスしてみました。

シャンパンローズ


このCDと同じ大きさのチョコレートは、ひとたび口にほおばればシャンパンの香りが口の中に広がり、その後には薔薇の香りが重なる華やかなホワイトチョコレートでして、チョコレートに織り込まれた薔薇の花びらを眺めつつ、「薔薇の香に伏してたよりを書く夜かな(By池内友次郎)」などと口ずさみたくなることウケアイであります。ゑ?そんなことをするのはMyrthaだけですって?!まあまあよいではありませぬか。今日はチョコレートの祭典の日なのですから♪

おっと、「私、お酒はダメなのよね」という方のためにもノンアルコールのチョコを用意してみましたゾ(なんといっても今年のテーマは「絆を大切に」とのことですからナ)。それがこちら!

豆腐チョコレート


こちらは日本のBERRY CHOCOLATESが作っている「豆腐ちょこれーと・緑茶&ミルク」という一風変わったチョコレートでして、フリーズドライにされた豆腐のまわりに有機農法の白川緑茶葉を使用した緑茶チョコとミルクチョコを絡めたさくさくのヘルシー・チョコレートなのです!2種類のチョコを食べられる上に砂糖を使わずに天然の麦芽糖を使っているので、砂糖に比べてカロリーも押さえられているのだとか。ダイエット中の方も安心して食べられることでありましょう♪


チョコレート好きな方にとっても、チョコレートが苦手な方にとっても、今年はもう少し穏やかな一年になりますように(-人-)

アナトリア旅游13・イスタンブール再び篇(上)

自動車のエンジン音が低くあたりに響き渡り、目を覚ました。
窓の外を見ると、暗闇の中に観光バスや自家用車、トラックなど、大小さまざまな大きさの自動車が密集している。
何かあったのだろうか?

13日目。am2:55
異様とも受け止められる中で、熟睡しているポエ爺を揺さぶり起こして聞いてみた。
寝ぼけ眼のポエ爺はあたりを見回し、「ダーダネルス海峡を渡るための埠頭では?フェリーに乗り込んだら船内を歩けるから行ってみれば?対岸まで40分くらいだったと思うよ」と、必要情報を言い残してまた夢の中へ遊びに行ってしまった。

ヨーロッパ大陸からアジア大陸へ行くためにボスフォラス海峡を渡ったのが11日前の話だ。あの時は不覚にもバスが走り出した途端に眠りに落ちてしまい、ボスフォラス海峡を渡る瞬間を目にすることがかなわなかったが、今回はヨーロッパ大陸へ戻るためにダーダネルス海峡を渡る瞬間に立ち会えるのだ。暗闇にもかかわらず、わくわく感が増す。

対岸から渡ってきたフェリーに乗っている自動車が全て出払ってからバスごと中に入り   .
(かなり大きなフェリーだぞw)

ダーダネルス海峡


真っ暗なマルマラ海を静かに進んでいく。
この間、観光客は物珍しそうに、そして記念にとばかりにフェリーの上の階に設けられたベンチや甲板に出ては頻りに写真を撮ったり、興奮したりしている。海へ目をやると隣にも対岸を目指すフェリーの姿がある。一度に何隻の船が行き来しているのだろうか?

ダーダネルス海峡


対岸の灯りが見えてきたところで、置いてかれてはかなわないと慌ててバスに戻る。一足先にバスに戻ったポエ爺はすでにすやすやと寝入っている。いつとはなしに、再び夢の中の住人となっていった。

突然、肩を揺すられて飛び起きた。添乗員が降りろと合図をしたので、慌ててバスを飛び降りた。
am5:20
どうやらイスタンブールのオトガルに着いたらしい。
周りを見ると地方から上京したばかりのバスが客を下ろしている。
とりあえず旧市街方面へ戻らなければならないのだが、11日前に来たオトガルとは何か様子が違う。どこだ?ここは?

あたりを歩いている小父さんに旧市街へ行くバスを訊ねると、「どこから来た?乗ってきたバスの乗車券はないのか?」というようなことを聞かれ、とりあえず先ほど下ろされたMETRの乗車券の切れ端を見せると、「それならばあそこから乗れるよ」と教えてくれた。
イスタンブール行きのMETROのバスはミニバスでアクサライまで送ってくれるというのだ。高額なのはアクサライまでの費用込みだからなのか、大手バス会社だからなのか。。。
近くにあったこの建物の地図を見ると、このオトガルは地上2階、地下1階の3階建てとあり、恐らくトルコ国内最大規模のバスターミナルだろう。バス停が3階建てというのはにわかには信じがたいが、トルコ人からすれば東京駅や新宿駅の方が「信ジラレナイ」ということになるのだろうからお互いさまだ。

アクサライ近くのユスフ・パシャからトラムに乗り、旧市街の中でもダウンタウンにあたる一角のギュルハネまで行き、さっさと身体を休めたいということもあり、イスタンブールに来たその日に泊まったEmek Hotelに行き、しばしの休息を取る。

日が中天に昇りかけた頃、のっそりと起き上がって街へ出た。
バス移動によって睡眠時間が乱れても小腹の空くのは健康体だからなのか、食い意地がはっているだけなのか。。。
今後の行動のためにも、小腹を満たさなければというわけで、トルコ版ファストフードともいえるドネルケバブ屋へ入った。

イスタンブール・ドネルケバブ


これはホットケーキよりも薄く、クレープよりも少々厚手のパン生地に削ぎ落とした牛肉やトマト、フライドポテトと共に香辛料と青唐辛子を包み込んで再び焼いた食べ物だ。ギョズレメというトルコ版お好み焼きの一種(亜種?)になるのだろうか?見かけよりもボリュームがあり、これとアイランで十分にお腹いっぱいになる。

腹も満ち満ちたところで、初日に遠くから眺めつつも中へは入らなかった聖アヤソフィア聖堂(Ayasofya Müzesi)へ行ってみる。

イスタンブール・アヤソフィア


アヤソフィア聖堂はビザンティン帝国(東ローマ)のコンスタンティウス2世によって360年に建てられたギリシア正教の本山だ。度重なる火災に遭い、532年にはニカの乱によってテオドシウス2世の建てた聖堂が焼け落ちたためにユスティアヌス帝が再建にとりかかり、537年にビザンティン美術の最高傑作とされるこの大聖堂が完成した。

聖堂内にはさまざまな色の細片(テッセラ)をすきまなく敷きならべて壁画や床の装飾にするモザイク技法を用いた画がある。モザイク画の細片は大理石や貴石、色ガラス、金銀箔のガラスなどで、それを漆喰の地に埋めこむので耐久性に富み、長い歳月を経ても色彩が失われないという特色を持つ。

これは聖母子に聖ソフィア聖堂を捧げるユスティニアス1世(左)とコンスタンティノープルの街を捧げるコンスタンティヌス1世の寄進図。
ポイントは両皇帝の顔が双子のようにそっくりなところ、だろうか?

イスタンブール・アヤソフィア


福音書を持つキリスト(中央)に金貨を捧げるコンスタンティノス9世モノマホス(左,在位1042~1055)と文字の記された巻物(寄進目録?)を捧げる皇后ゾイ(右)の寄進図(光の反射で一部白っぽい画像になってしまったが、ま、「ご愛敬」ということで^^;)

イスタンブール・アヤソフィア


キリストを膝に抱いた聖母に金貨袋を捧げるヨアンネス2世(左,在位1118~1143)と目録の巻物を持つ皇后イリニ(右)の寄進図。

イスタンブール・アヤソフィア


歴代皇帝は聖ソフィア聖堂に寄進しては、その様子をモザイク画に表していたようだ。

こちらは中央にキリスト、左に聖母もマリア、右に洗礼者ヨハネが描かれている。下半分が失われてしまったこのモザイク画は製作年が12世紀とする説や13世紀後半とする説もあり、皇帝不在のために年代を確定できないらしい。

イスタンブール・アヤソフィア


普段、「キリスト教といえばバチカンを中心とした西洋世界のもの」と思ってしまいがちだが、これらのモザイク画を見ると、そこには欧米のキリスト教世界とはまったく異なるキリスト教世界があると思わざるを得なかった。「キリストの顔はどのようなものだったのか?」などとは考えたこともなかったが、宗教画を描く際に自分たちに似せて描くことを考えれば、西洋絵画のキリストよりもこちらのキリスト像のほうが実物に幾分かは近いのではないか?キリスト教は中東で生まれ、普及していったという事実をもう少し強く意識した方が良いのではないか?   そんなことを漠然と考えてしまった。

2階にあるモザイク画を見た後に1階に下りると、そこにはイスラム教世界が広がっている。
キリスト教寺院になぜイスラム教世界が同居しているのか?
これは1453年にオスマン帝国のメフメット2世がコンスタンティノープルを陥落させた時に、この聖ソフィア聖堂をイスラム教のモスクに変えるように命じたことによるという。モザイク画が「偶像である」として漆喰で塗り込められたのはメフメット2世の曾孫にあたるスレイマン1世の時であり、再び姿を現すのはイスラムモスクを廃され、国立博物館となることが決定した1934年10月24日、つまり20世紀のトルコ共和国成立後であった。

これはメッカの方角(キブラ)を示す窪み「ミフラーブ」。
さすがに地方のモスクのものと比べて立派なものだw

アヤソフィア


これは「ミンバル」と呼ばれる説教壇。
イスラム指導者はこの階段に腰掛けて講話をしたという。但し、講話者はその時の位階によって座れる段が決まっており、通常、最上階に座れるのはマホメットのみで、どんなに位の高い指導者でもこの段はマホメットを憚って座らず、2~3段下に腰掛けるのが慣例であったとか。

アヤソフィア


その他にも堂内の方々に暗緑色のプレートが掲げられ、その中には金色のアラビア文字で「アッラー」や「マホメット」などの他に、「アブー・バクル」「ウマル」「アリー」などの正統カリフ時代の指導者の名前が記されている。

アヤソフィア


イスラム教は偶像崇拝を禁じているので文字を装飾化していった。これらの文字は19世紀の著名な書家ハッタト・ノーッゼト・エフェンディの作品であるそうな。世界広しといえども、書家が存在するのは漢字圏とアラビア文字圏だけであろう。

聖ソフィア聖堂を出て、トプカプ宮殿(Topkapı Sarayı Müzesi)へ   .

トプカプ宮殿


トプカプ宮殿はボスポラス海峡、金角湾、マルマラ海の三面の海を睥睨する高みにあり、メフメット2世時代の1472年に造営が始まり、1474年に竣工したといわれている。が、その後の歴代スルタンはさまざまな増築や改築を加え続け、第31代スルタンのアブドゥル・メジト1世が1858年にスルタン座を新市街側のドルマバフチェ宮殿に移すまでの約380年間を宮殿として使われていたので、増改築のない方がおかしいともいえる。
尚、トルコ語でトプは「大砲」を、カプは「門」を意味し、門に大砲が置かれていたことに由来するという。

この敬礼門をくぐり、右側へ進めば東洋の陶磁器の展示所となっている厨房、左側へ進めばハーレムがある。
旅行シーズンのハーレムは入口を見るだけでも混雑が凄まじく、早々に見学を諦めたMyrthaは厨房へ足を進めた。

厨房では数百人の料理人が宮廷内の人間や訪問客のために毎日料理を作っていたという。そしてこの厨房で作られた料理は展示されている陶磁器に盛られていたのだろうか?
歴代スルタンの陶磁器コレクションはおよそ12000点あり、中国製は宋・元・明が中心で、清に変わった混乱期以降は日本の有田や伊万里が多いようだ。日本製はともかく、中国製の陶磁器はシルクロードを通って来たものを入手したのだろうが、皿のように割れやすい物を一体どのように運んだのだろうか?ポエ爺の方を向くと、「それはですね。皿の周りを泥で固めて割れにくくして、目的地に着いたら泥付きの皿を池に放り込んで泥を落としていたのです」との答え。「ホントか?」と思わず疑いたくなるが、それが本当ならば、輸送にどれほど大変であったであろうか?!この展示室に陳列されている陶磁器研究者垂涎の食器たちは正に値千金の贅沢品であるのだ!

値千金の陶磁器群を見て回り、宝物館へ足を運ぶと、そこには筆舌に尽くしがたいものが待ち受けていた。宝物館の展示ケースの中には、中央に262カラットの南米産エメラルドが埋めこまれた「ターバン飾り」も、86カラットのダイヤモンドのまわりを小さなダイヤで取り囲んだ「スプーン職人のダイヤ」も、柄の部分に3個のエメラルドが嵌め込まれ、ダイヤとエナメルの細密画で飾られた「トプカプの短剣」も、なかったのだ!
盗難?非公開中?修理中?

カラのケースの中のプレートを見ると、「今は東京にあるよ~ん♪」と書かれている。
やられた・・・!
よりによって、東京にあるとは・・・(この時、東京都美術館でトルコ・イスタンブール歴史紀行 トプカプ宮殿の至宝展という催し物があったのだ)

あまりのことにどっと疲れの出たMyrthaを慰めるボスフォラス海峡はただただ青く、どこまでも青かった。。。
トプカプ宮殿より第一ボスポラス大橋を遠望。

トプカプ宮殿


他にも、預言者の遺物を保存してある聖遺物の間など、修理中の部屋がかなりあり、がっかりしたMyrthaはとぼとぼとトプカプ宮殿を後にした。
教訓;美術品の在りかや修理中などの事前情報はきちんと調べよう。。。

つづいて考古学博物館(Arkeoloji Müzesi)へ   .

考古学博物館


考古学博物館は、ギリシア、ローマ時代の彫像、墓碑、石棺などを展示した本館と、エジプト、メソポタミア、初期アナトリア文明の遺物を展示した古代オリエント博物館と、12世紀から20世紀までのセルジュク、オスマン時代の陶磁器の展示されている陶磁器博物館の三館からなる。

考古学博物館


のんびりとハドリアヌス帝像などを見ていたら職員と思しき人に早々に追い出されてしまった。「親切なトルコ人といえども役人はどこの国も同じか・・・」思わず毒づきたくなってしまったが、どうやら閉館時間は17時ではなく、16:30らしい。
教訓;ガイドブックを読むときは隅々までよく目を通そう。。。

どうも今日はタイミングが悪いと感じたMyrthaは街中のキオスクでEfesビールを購入し、とぼとぼとホテルへ戻るのであった   .


※トルコ旅行ひとくちメモ
イスタンブールに最初に集落をつくったのはトラキアからの移住者で、アジア側のカドゥキョイであったという。紀元前7世紀にビサス率いるギリシア・メガラ人移住者がデルフォイの信託に従って現在の旧市街の先端部一帯に街をひらいた。街は統率者に因んで「ビザンティオン(ビザンティウム)と呼ばれて海上交易で栄えたが、2世紀末にローマと敵対したためにセプティミウス・セヴェルス帝の怒りを買い、徹底的に破壊された。
A.D.330年、コンスタンティヌス帝はローマの都を再び栄えたこの地に移し、「コンスタンティヌスの街」の意であるコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と呼ばれるようになった。ローマ帝国が東西に分裂した後も東ローマ帝国として1000年以上も繁栄を続けたが、1204年に第4回十字軍がコンスタンティノープルを占拠して街は荒廃し、トルコ族の侵攻もあって次第に国力は衰えていき、セルジュク・トルコに替わってアナトリアを支配したオスマン・トルコのメフメット2世がこの地を包囲した時、東ローマ帝国領は現在のイスタンブール旧市街とわずかな周辺地だけとなっていた。
1453年、念願のコンスタンティノープルを奪取したメフメット2世はエディルネから都をコンスタンティノープルに移し、イスタンブルと呼んだ。こうしてイスタンブールの首都としての地位はオスマン帝国が第一次世界大戦に敗れた後の1923年にアンカラが新首都と定められるまで続き、現在もトルコ共和国の経済と文化の中心として栄えている。

01/01のツイートまとめ

Reine_Myrtha

「あけおめ」ツイートによってtwitterが落ちたらしい。いつからこの国の住民は新年の0:00に「あけおめ」をしないと気が済まなくなったのかしら?http://t.co/gJlXz0cP
01-01 02:47

Myrthaの今・・・

サテ、一部の方は已に御存知のことですが、この度成り行きでしばらくの間中国に滞在することとなりまして、新たに中国滞在記のBlogを立ち上げました。
というのも、残念なことに中国からはFC2にアクセスできないため、この「チラシのウラの走り書き」に新たに中国滞在記のカテゴリーを設けて書くことが難しくなったためであります。

長らく一つのBlogに書き続けておりますと、それなりに愛着もわくものでして、ここに書き込めないというのは一抹の寂しさを感じざるを得ません。しかしながら、「滞在先で感じたことや見聞したことを誰かにしらせたい!」というある種の人種にありがちな思いもありまして、中国滞在が終わりを告げる日まで一つのBlogに書き込み続けられることを祈りつつ、中国からも書き込み可能なSeesaa Blogさんから書くこととしました。

中国滞在記は「江南道中膝栗毛」といいまして、これは滞在先の南京が江南地方にあたることと、江南道が唐代の貞観年間に設置された道であることをかけたものでして、膝栗毛とは「東海道中膝栗毛」などと同じように「旅行」を意味するものであります。
これまた月並みなBlogのタイトルではありますが、併せてお楽しみいただければ幸いと思います。

なお、この「チラシのウラの走り書き」は書き込める状態の時に書いていこうと思いますので、こちらも引き続き御愛読下されば幸いです(-人-)

                                                       Myrtha 拝

中国滞在記Blog「江南道中膝栗毛」の入口はこちらから
もちろん、この日記の「カテゴリー「金陵滞在記」からでも、りんく「江南道中膝栗毛」からでもアクセスできますゾ。

アナトリア旅游12・ベルガマ篇(下)

12日目。
昨日や一昨日とまったく同じようで微妙に異なるような気のする朝食を食べ、昨日行ったアスクレピオンから微かに見えた未発掘の遺跡を見に行ってみようと言うことになった。
宿泊施設のチェック・アウトは10:00だと思い込んでいるMyrthaは部屋の引き渡しの時間までに戻ってこられないであろうことを心配したが、ポエ爺はまったく気にせず、「GOBIバーバーはバスに乗る時刻まで居ていいって!」と暢気に構えている。友人待遇なのか、常連(?)待遇なのか、もはや考えるのもばかばかしくなってきた。
とりあえず、未発掘の遺跡を見に行こうではないか!

アスクレピオンから北の方を眺めた時に現れた未発掘の遺跡を尋ねてまずはメインストリートを北上し、アクロポリス方面へ歩く。そして、メインストリートの終わるあたりを左折してひたすら西に向かって歩く。住宅街に入って途中、道行く人が近づいてくると、ポエ爺は「気をつけて」と緊張した小声を発し、足早に通行人から遠ざかった。子供達は相変わらず「Money! Money!」と近づいて来ては大人の姿を見ると声を潜め、再び「Money! Money!」と言い続ける。無言のまま足早に子供達からも離れて遺跡を目指した。

住宅街をぬけて緩やかな斜面まで来ると、さすがに子供達もここまではついてこない。遠巻きにこちらを眺め、時折小石を投げてくる。「ケチな外人」とでも思っているのだろうか?
子供達の方を見つつ、ポエ爺に訊ねた。
「ああいったことを平気でやるのは教育や親の躾のせいかね?」
「それもあるし、あとは経済問題だね。このあたりは市内でも貧しい人が多い一角なんだ。女性が一人で来るところではないね」
恒産なき者は恒心なし、か・・・いずれ、教育問題に経済問題もからめて考えてみようかと思うMyrthaであった。

子供達に背を向けて緩やかな坂を下っていくと、そこには埋もれかけた遺跡が静かに佇んでいた。

水上競技場跡


入口とおぼしきアーチをくぐってみる。
未発掘の遺跡といえども、多少は修復されているようだが、いつ崩落するとも限らないのでおそるおそる足早にくぐった。

水上競技場跡


アーチをくぐったところで目線を下にやると、トンネル状のものがある。
埋もれたのか、もともとトンネルのように掘ったものなのか、見当もつかない。

水上競技場跡


遺跡からアクロポリスを遠望。
擂り鉢状の野外劇場と、トラヤヌス神殿が青空によく映える。

水上競技場跡


ふたたび遺跡に目を向けると、今度は三連のアーチが目に入った。

水上競技場跡


それほど大きな遺跡にも見えないが、やはり埋没しているのだろうか?

水上競技場跡


一通り見終わった後、ポエ爺に解説を求めると、この遺跡はローマ帝国時代の水上競技場跡であるらしい。
資金難なのか、発掘作業が行えずに放置状態になっている遺跡がベルガマ市内には多数あるという。「ボクに大金があれば発掘作業をするのになぁ。。。作業をする時には有能な現場監督者が必要で、この人がキチンとした人でないと発掘をする人が遺物を盗んでしまったりと大変なんだよ・・・」
ポエ爺は発掘作業に携わったことがあるのだろうか?

未発掘の遺跡改め、未発掘の水上競技場跡を後にしてもと来た道を足早に戻る。先ほど小石を投げてきた子供達の姿はすでになく、照りつける太陽の下で牛馬の糞の風化を待つ姿があるばかりだ。

突然、ポエ爺が声を上げた!
「もう一度アスクレピオンに行く!昨日フィルムが無くなって写真が撮れなかったから!」
そうなのだ。このデジカメ全盛期の時代にポエ爺はフィルムを入れて撮影する一眼レフを愛用しているのだ。何度も行っているはずなのにそのたびに写真撮影は必要なのかとなかば呆れつつも、アスクレピオンを再訪することにした。

入口の管理人は「二日続けてくるとは物好きな観光客だ」という心を隠さずにニヤニヤと笑いつつ中に入れてくれた。
喜々としてシャッター音をうならせるポエ爺を傍目に、近くの石に腰を下ろし、暑さをやり過ごした。日が中天に上る頃は本当に暑いのだ。

ひとしきりシャッターを切りつづけたポエ爺だがさすがに飽きたのか、撮るものがなくなったのか、満足そうな顔を向けてきたので、アスクレピオンを出て街へ戻ることにした。昨日は気づかなかったが、この近くには軍の施設があるようで、兵士の姿がちらほらと見られる。

街へ戻るとポエ爺が買い物をしたいといい、商店へ入ってしまった。しばらく待つと中から大きな袋を両手にして出てきた。普段買い物らしい買い物をしない人が珍しいと思って購入物品について訊ねると、「チャイ道具を一式買った」とのこと。つまり、日本酒を飲むおちょこにぴったりのチャイカップと、ソーサーと、ティースプーンと、チャイを湧かす二層式ヤカンを買ったというのだ。どうやらポエ爺は日本に帰ってもチャイを飲み、トルコに思いを馳せるつもりらしい。チャイの茶葉が無くなったら煎茶でチャイの雰囲気を味わうつもりだろうか?

Gobi Pensionに戻ると、いつの間にか私は「GOBIバーバーの娘」ということになっていた。トルコにお父さんの出来るのは素敵なことだが事情がよくわからず、またポエ爺に解説を求めた。それによると、何でもトルコ族というのは元々が遊牧民族であって、部族ごとでかたまって生活をしていた。そうすると、牧草を求めて移動している時に他の部族と遭遇することもあるが、そのたびに争いをしていては無益であるから衝突を避けるために義理の親子・兄弟関係を結ぶこともあった。これはその名残り、とのこと。

夕方になって、GOBI一家が「さよなら&また会いましょうパーティー」と称してトルコの伝統的な家庭料理を振る舞ってくれた。
(写真はポエ爺を囲むGOBI家の人々↓)

GOBI Pension


GOBI母の心のこもった手料理はとても美味しく、自分の胃袋の小ささが恨めしいほどだった。ポエ爺は自称3500歳という超高齢でありながらぱくぱくと料理を口に運び、舌鼓を打っているというのに!嗚呼、我が胃袋のなんと貧弱なことよ!
どのようなレシピなのかと思って、接待に忙しいGOBI母に代わってGOBIバーバーにメニューを書き出してもらったが、達筆すぎて解読不可能だった(T_T)しかしながら、野菜と羊肉のトマト煮、ピラフ、ヨーグルトの冷製サラダ、スープ、トルコ風ミルクプリン、エクメックであったのは間違いない。

名残の尽きない晩餐も終わり、荷造りをして、GOBIバーバーに「また遊びに来る」と約束をして、この温かい一家と別れ、オトガルへ急いだ。
21:20。
イスタンブールに向かって、バスは夜の街中を静かに走り出した。


※トルコ旅行ひとくちメモ
ベルガマ(Bergama。旧称:Pergamon)はトルコ共和国の西部、エーゲ海から約20km内陸に入ったところにある人口10万人程の地方都市で、現在はイズミール県に属している。イズミール市の北方約90kmに位置し、同市からバスに揺られること2時間程度で到着する。市域はバクル川(カイコス川)下流域の平原北部に展開し、煙草や無花果などの集散地であり、製綿業などの基本産業の他にアクロポリスやアスクレピオン、クズル・アウルなどの観光資源に恵まれた都市だ。海岸にむかって20分程度自動車を走らせると、ディキリという海水浴に適した保養地があり、彼方に浮かぶレスボス島を眺めることが出来る。

アナトリア旅游11・ベルガマ篇(中)

「Günaydın!(ギュナイドゥン=おはよう)」
いつ頃からかはわからないが、ポエ爺をマネてGobi Pensionの中庭にいる客にトルコ語で挨拶をするようになっていた。他の外国人客は妙なアジア人が何かよくわからないことを言っていると思ったことだろう。

11日目。
昨日と変わらないエクメックとゆで玉子と果物とチャイの朝食を食べつつ、ポエ爺の行動予定を聞く。
曰く、「今日は昨日ダウンタウンの子供達が口々に言っていたアスクレピオン(Asklepieion)へ行こうと思うのだけれど、その前にイスタンブールへ戻るためのバスの乗車券を押さえようと思う」とのこと。
異論のないMyrthaは賛成し、食後のチャイを飲み干した。

Gobiペンションから目と鼻の先にあるオトガルへ行き、イスタンブール行きのバスの有無について尋ねると、明日の21:15発があるという。40YTLという金額に驚いていたポエ爺だが、大手バス会社METROであるならば、ある程度値の張るのも仕方がないだろう。その乗車券を購入し、ついでに郵便局へ行って書きためていた葉書を投函し、これまたついでに銀行へ行って多少の米ドルをトルコ紙幣に換金し、漸くアスクレピオンへ向かったのは真昼の頃だ。

確か、このあたりにあったはずなのだが   .
というポエ爺のあやふやな記憶を頼りに照りつける太陽の下を歩いていると、突然、列柱廊が見えてきた!

アスクレピオン


どうやらこれがアスクレピオンの入口の「聖なる参道」らしい。
この聖なる参道は、かつてはアクロポリスの裾から続いていたという。
入場料として10YTLを払い、中へ   .

アスクレピオンは医学の神アスクレピオスへの信仰を起源に持つ医療施設で、古代ギリシアのエピダウロスを発祥地とし、アテナイを始めとしてローマやコス島、クニドス島にも分祠されて同様の施設が出来たという。ペルガモンへの分祠は『ギリシア案内記』の著者にしてギリシアの旅行家、地理学者でもあるパウサニアスによれば紀元前4世紀頃とされているものの、現存する史跡はハドリアヌス帝(A.D.211~138在位)の頃のものが殆どだという。

入口の壁には「死は入るべからず」と彫られており、入院希望者はまずは医師の診察を受けねばならず、治療の見込みがなければ門内に立ち入ることは出来なかったという。そればかりか、入院してもなかなか治癒しない者を院外に追いだしたこともあったという。なぜならば、アスクレピオンの神域ではハデス(死者の国の神)の侵入を許すわけにはいかなかったからだ。

門前付近にある蛇と椀の柱石。

アスクレピオン


門前で入院を拒否された病人の中には悲嘆に暮れて椀に蛇の毒を入れて自棄飲みする者もいたという。幸いにもこの病人は死ぬどころか毒のショックで病気が治ってしまい、この施設の医学者であったガレノスは「毒も用い方次第で有効であると思っていたが、人体実験をするわけにはいかなかったのだ」と述懐し、この蛇を施設の象徴としたという。
蛇は脱皮を繰り返し、さらに暗い地中から這い出てくることから蘇生・再生・復活の象徴とも見なされていたという。現在のWHO(世界保健機構)のシンボルになっているのもこれによるとのこと。

聖なる地下道を通って治療棟へ   .

アスクレピオン


施設内にはいくつかの井戸や池泉があり、飲料や患者の水浴に使われていたらしい。そのうちの一つから水が引かれ、屋根で覆われ、換気・採光用の窓が12箇所穿たれている長さ80メートルの地下道の床下へと流されている。
聖泉で身を清めた患者は流れる水音を聞きつつ神妙な面持ちで地下道を通って治療棟へ向かったのであろう。

アスクレピオンの心臓部・治療棟へ   .

アスクレピオン


この治療棟はアスクレピオンの心臓部で診察は勿論のこと、医療研究も行われていたという。建築構造は直径26.5メートルの円形の二階建てで、全体は大理石で覆われ、周囲には水路がめぐっていたようだが、さすがに今は水跡すらなく、2階部分も崩落している。

アスクレピオン


治療棟での治療方法は、本体の円形に付属している6箇所の突起部分(アプシス)で行われ、夢占いや自己暗示による催眠療法を中心として、その他にも水浴や日光浴、観劇、軽度の運動、音楽鑑賞などのストレスを発散するリハビリ的なものを用いたという。また、医師は天井部分に残されている伝声管からまどろんでいる患者にむかって「アスクレピオスのお告げ」という形をとって言葉をささやきかけて治したと考えられている。

治療棟の隣にあるアスクレピオス神殿へ   .

アスクレピオン


前門の南に位置するこの神殿は施設全体の精神的支柱として存在し、直径24メートルほどの円形構造の内部にはアスクレピオス像が納められていたという。

廻廊を見学。

アスクレピオン


この南廻廊は2階建てのイオニア式列柱廻廊だったようだが2階部分は何も残されておらず、同様に西廻廊もわずかばかりの柱石が残る何もない状態だった。西廻廊のさらに西へ行ったところでは泥風呂療法が行われていたという。
因みに近年の調査で南廻廊と西廻廊の交わるあたりに二棟の遺構が発見され、これらが男女別のトイレであることがわかったという。内部は大理石製とのことだが、「トイレを大理石で・・・」と考えてしまうのは現代人的発想で、古代人にとっては「アタリマエのもの」だったのだろう。

アスクレピオン廻廊よりアクロポリスを遠望。

アスクレピオン


オデオンへ   .

アスクレピオン


オデオンとは小劇場のことで、収容人数は3500人とアクロポリスの劇場に比べれば小規模だが、客席層は同じように3層で、大理石製の貴賓席もあった。ここでは詩歌の朗読会や音楽会などの催し物を鑑賞することによって憂鬱な気分を払い、平癒を促進する狙いがあったという。
ポエ爺曰く、「そういった意味ではトイレが肉体的排泄行為をするところならば、ここは精神的排泄行為をする場所だね。人間の一生は食べ物であれ、カネであれ、ストレスであれ、所詮は出し入れの生涯だよ♪」
・・・ポエ爺よ。さきほどのトイレ跡を見て妙な悟りを開いたのか?(-_-;)

オデオンを上ると数本の松の木が空にむかって聳え、その根元には平たい石が置かれている。まるで天然のテーブルのようだ。丁度良いとばかりにGobiペンションの冷蔵庫で冷やしておいた白ブドウを食べて水分と糖分を補給し、石のテーブルにごろりと横になる。松風がさやとそそぎ、昼間の暑さを和らげてくれる。世界中ではビジネスマンがあくせくと働いているであろうに、何と贅沢なひとときだろうか!

オデオンを下りて北廻廊を見学。

アスクレピオン


北廻廊は他の廻廊よりも保存状態が良く、イオニア式の柱石が残されている。面白いのは写真右側にある数本の柱石がコリント式に変わっていることだ。これは、本来はイオニア式の柱石であったものが、紀元175年のアナトリア西部大地震によって倒壊し、当時の統治者であったローマ人が自分達好みのコリント式にかえてしまったことによるらしい。

そしてこの廻廊には土が敷かれてあり、患者はその上を裸足で歩いて鬱屈した気分を晴らしたとのこと。泥風呂療法といい、裸足療法といい、どれも古代人が開発していたとは驚くばかりだ。現代人も靴ばかり履いていないで、時には泥んこになって遊んだり、裸足になって歩くということが必要なのだろうか?

古代の診療施設に別れを告げて、白ブドウやチーズなどの買い物をしつつGobiペンションに戻ると、Gobiバーバーが「あそこのアイスクリーム屋は美味しいよ」とペンションのはす向かいにあるアイスクリーム・ショップを紹介してくれた。

ベルガマ・アイスクリーム屋


さっそくROMAアイスクリーム屋へ行ってみた。アイスクリームの入れられた冷凍庫は日本のものとあまり変わらないデザインなので中身はよく見える。見えるのだが・・・色とりどりのアイスクリームといえども何の味なのか見当もつかない。おまけに親切な店員さんが一々説明してくれるものの、結局さっぱりわからない・・・ということで、4盛り選んで良いといわれたので適当に黄色、オレンジ色、赤色、薄い若草色を選んだ。
三角コーンに山と盛られたアイスクリーム。そしてその上にはナッツを砕いたようなものをトッピングしてくれた。味は、黄色がレモン、オレンジ色がオレンジ、薄い若草色はピスタチオであるらしい。赤色は・・・チェリーだろうか?写真を撮ったら近すぎたのかピンボケしてしまい、Upできず。残念。。。

夕飯はGobiペンションの隣にあるKERVAN PIDE ve ÇORBA SALONUへピザを食べに行った。

ベルガマ・ピザ屋


ピザというと即座にイタリアを連想してしまうが、トルコにもピデという舟形をしたトルコ風ピザがあるのだ。
とりあえず挽肉とチーズのピデを注文してみたが、あまりの量の多さにびっくり!これで5YTLはかなりお得な気がするゾ。
腹もふくれてGobiペンションの一室に戻り、ごろりと横になって物思いに耽る。帰国の日が刻々と迫っているのだ   .


※トルコ旅行ひとくち5くちメモ
ペルガモン王国はアレクサンドロス大王の没後(B.C.323)、アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトというヘレニズム世界で離合集散を繰り返す中で、その間隙を縫うようにして紀元前3世紀に成立した。当時、南西アナトリアを領有していたリシマコスはペルガモンのもつ地理的重要性を見抜き、ここに軍事拠点を置き、武将のフィレタイロスに管理を任せた。リシマコスがセレウコス朝シリアとの抗争で戦死すると、フィレタイロスが継承し、ペルガモンの創世につとめたが、嫡子のないフィレタイロスは甥のエウメネス(エウメネス1世)を後継者とした。
エウメネス1世(EumenesⅠ B.C.263~B.C.241在位)は、外交上対立関係にあった大国セレウコス朝シリアをB.C.261年にサルディス平原での戦いで撃破し、暫定的に問題を解決したが、隣接する剽悍な民族であるガラティア人との対立は貢納品を贈るという消極策を取らざるを得なかった。しかしながらその間にアクロポリスの改造や新城増築などのペルガモン王国の基礎作りを行った。
先王の嫡男がアッタロス1世(AttalosⅠ B.C.241~B.C.197在位)として即位すると、ガラティア人に対する貢納政策を止めたために攻防戦が繰り広げられ、領内に侵攻される事態に発展したが、遂にガラティア人を撃退し、住民から「ソテル(救済者)」と称された。さらにマルマラ海沿岸にまで領土を拡張し、マケドニアや西方ローマとも友好関係を結び、黄金時代幕開けの準備役をはたした。
エウメネス2世(EumenesⅡ B.C.197~B.C.159在位)が即位すると、基本的には先王アッタロス1世の方針を受け継ぎ、対ガラティア人問題や対シリア問題もペルガモンの優勢を保ち、ローマとの友好関係も利用しつつカッパドキアまで領土を拡張し、政治・外交・軍事各方面に成功を収めた。また、哲学・数学・天文学などの学問や、建築・機械・造船・皮革加工技術・彫刻などの文化事業も盛んになり、ペルガモン王国最大の繁栄期を迎えた。現在のアクロポリスで見受けられる遺跡群の殆どがこの時代のものである。
先王の弟であるアッタロス2世(AttalosⅡ B.C.159~B.c.138在位)は「フィラデルフォス(兄思いの)」という異名があり、即位以後もその政策継承を忠実に行っていた。エフェソス港の改修工事や公共事業も行われ、その繁栄の余光を帯びている中で隣国との国境紛争をローマが仲介するなど、次第にローマの影響が忍びよって来た時期でもあった。
甥のアッタロス3世(AttalosⅢ B.C.138~B.C.133在位)は即位しても忍びよるローマの影も王国衰亡の兆しにも気づかず、政治は側近に任せたまま、自分は薬草研究のために庭に薬草畑を作ったり、優秀な人物を殺害してその財産を奪ったりしていた。最愛の母や妻が他界すると生きる気力を失ったのか間もなく他界した。遺言により王国の全領土はローマに委譲された。ローマはペルガモンを自由都市とし、以後も繁栄は続いたが、7世紀のアラブ人の侵略によって町は疲弊した。復興は14世紀のセルジュク勢力の時であるという。

アナトリア旅游10・ベルガマ篇(上)

10日目。
中庭へ出ると、朝食を出された。
GOBI Pensionでの朝食もコンチネンタル式のもののようだ。お約束ごとのようにメニューを挙げてみよう。
バター・苺ジャム・チーズ2種・桃・白オリーブ・キュウリ・トマト・ゆで玉子・シガラ・ボレイ(トルコ風揚げ春巻き)・スイカ・エクメック(パン)。キュウリは相変わらず皮をきれいに剥かれている。お国の文化の違いというものだろうか?不思議だ。

ベルガマ・朝食


am10:00
GOBIペンションを出発し、街の北側にある市内最大の遺跡であるアクロポリス(Akropol)へ向かった。

街を抜けて高台への上り坂を時に雨のように降りかかる蝉の鳴き声のシャワーをくぐり、時に牛の落とし物(けっこう大きいゾw)を横目にしつつひたすら黙々と歩く。湿度を含んだ日の光が大地と道行くMyrthaをちりちりと照らす。水分補給と小休止は必須だ。

休み休み1時間半ほど歩いた頃、ようやくアクロポリスの入口にたどり着いた。
アクロポリスは標高335メートルのところにあるらしい。と、いうことは、335メートルも上ってきたのかぁ。。。直線距離だとたいしたことはないけれど、迂回して歩くとかなりの距離を歩いたことになる。足早の観光旅行をされる方は自動車などの移動手段を考えた方がいいだろう。
入場料として10YTLを払い、いよいよ中へ   .

まずはこの遺跡の発見者カール・フーマン(Carl Humann)に敬意を表して彼の亡骸の眠るお墓を参拝。

カール・フーマン墓


鉄道技師のカール・フーマンがこの遺跡を発見するに至ったのは、1871年にイスタンブール・イズミール間の鉄道敷設工事の際に工事現場からフリーズ(ゼウス神殿の小壁)の断片を発見したことによるそうな。フーマンは発見した断片をベルリンの考古学者コンツェ(Alexander Conze)に送ったことから調査発掘作業が始まり、今に至るも発掘作業が続いているという。「自分が発掘した遺跡の傍らに葬ってもらえるとは羨ましいかぎりだなぁ」とはポエ爺のつぶやきであった。

次にゼウスの神殿を参観。

ゼウス神殿


ゼウスの神殿はペルガモン王国のエウメネス2世がガラティア人に対する戦勝記念としてゼウスに感謝を捧げた祭壇で国威発揚の象徴的役割を担い、祭壇は縦36メートル、横34メートルの西側に開いた馬蹄形で5段の基壇上に浮彫のある小壁や屋根付き回廊が乗り、豪壮を極めたといわれるが発掘当時に全てベルリン博物館に持ち去られ、未だに返還されずに基壇と松の木が見えるのみである。ポエ爺の顔を見ると、「ベルリン博物館はけしからん!」と書かれていた。

野外劇場を横目に過ぎりつつ、劇場テラスの北端に建つデュオニュソス神殿も見学。

デュオニュソス神殿


デュオニュソスはバッカスとも呼ばれる酒と狂乱の神であると同時に、舞踊と音楽に興奮を求めたことから演劇の神ともされ、地中海都市では劇場付近にこの神殿を置くのが通例になっているのだとか。
この神殿はB.C.2世紀の建造とされているものの、ローマ帝政期の火災後にカラカラ帝(A.D.211~217在位)が大理石で再建したと伝えられている。

デュオニュソス神殿より野外劇場の客席を眺望。

野外劇場


劇場の舞台近くに放置されていたレリーフ。

アクロポリス浮彫


顔は羊や馬のようであるが、身体は蛇や龍のように細長い。このかわいらしい浮彫は当時の伝説上の生き物だったのであろうか?

野外劇場全景。

野外劇場


この野外劇場は収容人数1万人ほどでエフェソス遺跡群の野外劇場ほどの規模はないものの、イオニア地方ではもっとも急傾斜に富んだ劇場で、客席は全3層、80段からなり、舞台に最も近い貴賓席は大理石製、他は安山岩製で、中間層市民が利用したという。
また、舞台背後にはデュオニュソス神殿から南へ250メートルに渡って伸びる列柱廊があり、商店が賑わいを見せていたというが、今は細い道が残っているのみである。

急傾斜の野外劇場の階段(客席?)をよじ登るように上がり、アテネ神殿&図書館へ。

息を切らせて急階段(当時は立派な座席だったのだろう)を登り切った先にあった物は、「原っぱ」だった。
「思わず絶句してしまうほどの何もなさ」に呆然とし、写真を撮ることも忘れ(と、いうわけでアテネ神殿及び図書館跡の写真はありません。見たい方は現地に飛んで下さい)、「ホントにここにアテネ神殿と図書館があったの?」と疑いの目でポエ爺を見ると、つぶらなおめめをきらきらさせている。どうやらポエ爺の目にはアテネ神殿と図書館が見えているらしい(-_-;)

以下、ポエ爺が見えているらしいアテネ神殿と図書館の様子ナリ。
アテネ神殿はアクロポリス最古の建造物で紀元前4世紀に建立され、二段の基壇の上にのるこの神殿は安山岩製のコリント式列柱による周柱式のもので、二つに仕切られた内部の部屋には各々にアテナとゼウスが祀られ、更に境内の東と北には二層の廻廊がめぐらされていたという。
東廻廊は一階がドーリア式、二階はイオニア式で、エウメネス2世によって建造されたことがわかっており、北廻廊一階壁面はストラトニコスやフィロマキオスらの手によって作られた浮彫や彫刻で飾られ、二階は隣接する図書館への入口へ通じていた。

図書館はエジプトのアレクサンドリア図書館に次ぐ規模を誇っていた智慧の蔵で、20万点の蔵書が図書館の北側と東側に保管されていたという。西側は湿気が多く、書籍整理に気を遣ったようで、湿気対策として壁を二重にするという工夫を凝らしている。また、図書館内には四つのホールがあり、最も大きな部屋が閲覧室であったとされ、英知の象徴たるアテナ像が安置されていたという。ちなみにこのアテナ像は高さが4.5メートルあったことから、閲覧室の高さは約6メートルと推測されている。いやはや古代にこれほど大きな建造物を造ってしまうとはただただ驚くばかりだ。

余談であるがその昔、アレクサンドリア図書館はペルガモンの図書館にその地位を脅かされそうになった時にパピルスの輸出を禁止するという政策をとったが、ペルガモンは山羊や羊の皮をなめして作った羊皮紙を使用して蔵書数を増やしたという。羊皮紙を意味する「parchment」という英語は「Pergamena Charta」を語源にしているという。
(-_-;).。oO(皮のために一体どれほどの山羊や羊が殺されたのだろうか・・・)

図書館からトラヤヌス神殿へ。

トラヤヌス神殿


トラヤヌス神殿はアクロポリスの中でも最良の立地にあり、青天に映える白大理石がベルガマ市内からでも見えるほどだ。ローマ人好みのコリント式列柱が三方をとりまく周柱式で、落成は次のハドリアヌス帝の時であったらしい。
また、賢帝とはいえ人間であったトラヤヌスが神として祀られた背景にはローマ帝国の政治的思惑(属州の統治や非ローマ人の結束・反乱防止など)があり、皇帝神殿は皇帝を信仰するというよりは、その都市の政治的権威や地位の高さを示す性格が強く、宗教的意味合いは希薄だという。

トラヤヌス神殿の裏へ回って北側の武器庫へ。

武器庫


トラヤヌス神殿北部はアクロポリス全体の最北端にあたり、ここに紀元前3~2世紀頃建造とされる武器庫が残っている。武器の他に食料の保存もでき、換気用の通気孔を使っての長期保存も可能であったという。

武器庫より人工湖を遠望。

人工湖


ベルガマ市民にとっての水瓶とも言える人工湖も今は乾期にあたるので随分と水量が減っており、水不足の心配をしてしまうが、雨期になればこの水瓶も満たされ、水不足の心配はなくなるという。

アクロポリスの一角より、ベルガマ市内を遠望。

アクロポリスよりベルガマを眺望


街の屋根が一色にまとめられているので統一感があって美しいが、その一方で「それしか建築素材がなかったから統一感が持てた」という見方も出来そうだ。アクロポリスはその名の通り高台にあるので上昇気流が強いのだが、その風はとても爽やかであり、心地良い優しさをふくんだ、ずっと浴びていたいような風であった。

ひと通りの見学を終えて、木陰でGOBIペンションを発つときに持参した白ブドウを食べつつひと休みをする。午前中から遺跡を見ていたので観光客は少なかったが、午後になったあたりから観光バスをチラホラと見かけるようになった。写真を撮るならば、午前中に訪れるのがよいかも知れない。

アクロポリスを離れ、街へ戻るために来た道をてくてくのろのろと歩いているとクラックションが鳴り響き、一台の車が止まった。何でも街へ出るなら乗せていってやるぞということらしい。ありがたく乗車させていただくことにした。家族旅行中のトルコ人と片言ながらの会話を楽しんでいると瞬く間に元来た道を通り、目的地に到着した。徒歩で1時間以上もかかった道がたったの数分で着いてしまうとは、文明の利器や恐るべし!重ね重ねの礼を言い、お互いの旅がよいものになるようにと言葉を交わして親切な一家と別れた。

クズル・アウル


クズル・アウル(Kızıl Avlu)は「赤の館(Red Basilica)」とも呼ばれ、その名の通り赤いレンガを積み重ねて造られた建物で、縦26メートル、横60メートル、高さ19メートルという大きなものだ。2世紀にローマ人の間で広く信仰されていたエジプトのセラピス神とイシス女神を祀る神殿として建てられたが、ビザンティン時代にはキリスト教会として使われていたという。
工事中だったので入館せずに外部から撮影。

GOBIペンションへもどるにあたって、行きとは違う道を歩いていると住宅街に迷い込んでしまった。照りつける日差しの中は熱くとも、日陰に入ればひんやりと涼しく、薄暗い。
薄闇の中で日の光を一身に浴びているのはイスラム寺院のミナレットだ。

ベルガマ


観光客が物珍しいというわけでもないのだろうが、カメラを片手に町中を歩いていると「Photo!Photo!」と子供達に写真撮影をせがまれる。

ベルガマ


これは男女を問わず、大抵の子供ならば嬉しそうに「私を撮影して!」とばかりにポーズをとってくる。

ベルガマ


デジカメでの撮影であるからポエ爺のようにフィルムの心配はしなくともすむので撮影には何の問題もないが、撮影をしたところでその写真が自分の物になるわけではないのだ。写真が欲しいというよりも、撮影されることそのものが嬉しいのだろうか?日本人にはよくわからない感覚だ(-_-;)

ベルガマ


子供達に求められるまま写真を撮っていたら、いつの間にか周りを囲まれてしまった。そして、彼らが口にする言葉は「Photo!」ではなく、「Money!Money!」に変わっていたのには面食らった。
子供達に周りを囲まれたまま辺りを見回すと、前方にモスクがあった。あそこならば誰か大人がいるだろうと思って歩を進めると、子供達は「Money!Money!」という声を潜め、Myrthaとポエ爺を囲んだままモスクまでついてきた。
そして、「写真をくれ!」と言い出したのには少々困った。というのも、子供達に送り先を聞いても住所を知っているのか疑問だったからだ。

ベルガマ


モスクの敷地内で大人の姿を確認すると彼らに事情を話し、モスクの住所を紙に書いてもらい、子供達に後日写真を送ると約束をした。喜んでくれるのはよいが、一向に立ち去る気配のない子供達・・・
こちらもそろそろ子供達と別れて自由に街中を逍遙したいのでモスクを後にした。すると、後をついてくる子供達。そして再び「Money!Money!」の声・・・

とりあえず大人がいれば「Money!Money!」とは言わないらしいと察したMyrthaはポエ爺に大人のいるところへ行こうと提案し、引き続き町中をふらふらと歩き続ける。数分ほど歩いた頃、大人達の集まる一角を見かけたのでそちらへ向かった。なおもついてくる子供達。店の入口付近のイスに腰掛ける老人に「どうしたね?」と言うようなことを聞かれたので、子供達を指さすと、「まぁ、入りなされ」とばかりに店内に招き入れられた。

ベルガマ・チャイ・ハネ


Myrthaとポエ爺が店の中に入ると子供達もそれに続こうとしたが、店の入口付近にいる大人達に追い払われてしまった。どうやらこのような大人の集う店に子供は入れないという暗黙のルールがあるらしい。平然と子供を入れる日本の居酒屋とは大違いだ。
子供達が立ち去った後、ご老人が店員にひと言二言何かをいうと、3人分のチャイが出てきた。勧められるままにチャイを口にしているとご老人がゆったりと口を開いた。
「お二人さん、どこから来なすったね?」
「Japon」
感心したように何度もうなずくご老人。以下、トルコ語のみのご老人の話をMyrthaは見当すらつけられず、会話は全てポエ爺に任せてしまった。Myrthaのやったことといえば、大人しくそしてにこやかにチャイをすすることと、たまたま持っていた紙を正方形に切って鶴を折ってご老人を驚かせたことと、一緒に写真撮影をしたことくらいだ。
「国に帰ったら、写真を送ってくれまいか?」とのご老人の申し出に快諾し、送り先を紙に書いてもらおうとしたところ、ご老人は若者に代筆してもらっていた。文盲ということか・・・?
それにしてもご老人よ。Myrthaはポエ爺の「マダム」ではありませんゾ。。。

重ね重ねの礼を言い、ご老人と別れた後、狐につままれたような心境のMyrthaはポエ爺にこの不思議な出来事について話してもらったところ、ポエ爺がいうには「子供といい、老人といい、一昔前のトルコそのものの貴重な体験をしたね」とのことであった。EU加盟を目指す国の子供達が、戦後まもなくの日本の子供達が進駐軍にチョコレートをねだるが如くに「Money!Money!」と観光客に小金をねだっている   EU加盟は国民の幸せにつながるのだろうかと首をかしげるMyrthaであった。

不思議な老人と子供達のいたベルガマ市の中でもダウンタウンにあたる場所を離れて途中にあったスーパーマーケットに寄り、ヨーグルトやチーズ、アイランなどの食品類を買ってGOBIペンションに戻った。よく冷えたアイランを飲みつつ、やはりあのご老人は不思議だったと思うMyrthaであった。


※トルコ旅行ひとくちメモ
日本では甘いデザートであるヨーグルトだが、トルコでは甘いヨーグルトはまったくと言ってよいほど見かけない。遊牧民がルーツのトルコ人にとっては家畜の乳から作られたヨーグルトはメインの肉料理にかけたり、調味料として使う貴重な蛋白源の一つであるという。また、アイラン(Ayran)という塩味のヨーグルト・ドリンクもあり、これはロカンタや食品店でも売られているので一度は飲んでみたい飲み物だ。作り方はいたって簡単で、ヨーグルトと水を1:1の割合でボウルに入れ、塩をひとつまみかふたつまみほど入れて泡立て器でよくかき混ぜれば完成だ(ミキサーでの攪拌も可)。汗をかく夏場はミネラルが不足しがちになるので塩味はとても美味しく感じられるが、二日酔いの時の飲み物としても良いと思うのは私だけだろうか?(賛同者ヲ求ムw)
余談だがトルコ人は「ヨーグルトはトルコが発祥」だと思っており、家庭によっては秘伝の菌種もあったりして日本でいう味噌や醤油のような存在とも言えそうだ。

梅で夏バテ対策

職場で青梅をもらったので、夏に向けての梅ジュースの素を作ってみた。

まずは材料を用意する。今回は青梅1kg分ナリ。
・青梅1kg
・氷砂糖800g(甘めの味が好きならば梅と同量)
・米酢1リットル
・保存用の瓶(上の3つの材料プラスゆとりが入る程度の大きめのものが良い)

梅シロップ


まずは梅をよく洗い、クッキング・ペーパーで水気を取る。

梅シロップ


梅のヘタを取りつつ、竹串をさして梅のエキスが出やすいようにして保存用の瓶に入れていく。

梅シロップ


瓶底を梅で敷き詰めたら氷砂糖を梅が見えなくなる程度に敷き詰め、また梅を敷き詰めて氷砂糖を入れ、梅と氷砂糖が層になるようにする。

梅シロップ


米酢を並々と注ぎ入れ、梅と氷砂糖が漬される程度まで入れる。

梅シロップ


フタで密閉して冷暗所に安置し、梅からエキスが出て氷砂糖が溶けてきたら時々瓶を振るって梅と氷砂糖と酢が交ざるようにする。

梅シロップ


氷砂糖が溶けて梅が発酵し、エキスが琥珀色になったらグラスにこの梅シロップと氷水を入れて飲む。
甘酸っぱい、さっぱりとしたのどごしが夏の暑い時にピッタリと合います。また、ノンアルコール飲料なのでお酒の飲めない子供にも安心です♪

因みに、米酢1リットルの代わりにホワイトリカー1リットルを入れると梅酒になる。
こちらも併せてお試しあれ♪

あの日のハシビロ氏

3月11日に突如揺れ出し、多大な被害をもたらした東北沖の地震こと東日本大震災ですが、驚いたのは人間だけではなかったようです。

Earthquake at the Tokyo Ueno zoo 地震に驚くハシビロコウ


普段は泰然自若としているハシビロ氏ですが、まさかここまで動揺するとは…
きっと怖かったんだろうなぁと思います。
背後にいるフラミンゴたちもかなり動揺しているようですし、地球さん、人間のエゴによって連れてこられたあわれな動物達のためにもそろそろカンベンしてください(-人-)

観櫻の宴

3月11日に発生した大地震以降、東日本を筆頭に国内で自粛ムードが広がり、ちょっと何かをやろうとすると「不謹慎だ」と大顰蹙を買ってしまうわけですが、岩手県の地酒・南部美人の五代目蔵元の久慈浩介さんもYouTubeで下記のようにおっしゃって下さっていますので、y友人と集ってお花見に行ってこようかと思います。

被災地岩手から「お花見」のお願い【南部美人】


そしてこちらが本日の花見弁当なり。

花見弁当



◆◇メニュー~◇◆

中華風おこわ

アンチョビポテト

塩ブタ(塩味の煮豚)

キャベツとアンチョビのサラダ~バルサミコ味~

さくらワイン



そして、お酒は南部美人を持参したかったのですが、生憎なことに酒屋さんで売られていなかったため、「がんばれ福島!」という思いもこめて、原発で苦しんでいる福島県のものにしてみました。これは二本松市の奥の松酒造の「奥の松~春のしぼりたて~」です。

花見奥の松


どんちゃん騒ぎの花見は苦手なのですが、今年はどこもそのようなことにはならなさそうですので、しっぽり・しっとり、和やかな雰囲気のお花見を楽しんできたいと思います。

では、行ってきま~す♪

誉め上手な人

『増注聯珠詩格』注釈 巻之七
  [用底事字格]   底事字を用ふるの格

     ぼくちく                      ちんげつくゎん
     墨竹            陳月觀
●  ●  ○  ○  ●  ●  ◎      ぎょくりつ せうせう     たけすうかん
玉立蕭蕭竹數竿    玉立蕭蕭たる竹數竿
○  ○  ●  ●  ●  ○  ◎       ふうし    ろえふ   せいかん  お
風枝露葉帶清寒     風枝 露葉 清寒を帶ぶ
●  ○  ○  ●  ○  ○  ●      きうねん   こきょく   じんか    み
舊年湖曲人家見    舊年 湖曲 人家に見る
●  ●  ○  ○  ●  ●  ◎      なにごと     しじゃう   うつ   き       み
底事移來帋上看     何事ぞ 帋上に移し來たりて看る
                                             (上平聲十四寒韻)


【通釋】
 美しく立つ、ものさみしそうな何本かの竹
 枝を渡る風や葉に浮かぶ露が清らかな寒さをまとっている
 むかし、湖畔の人家に植えられているのを見たが
 どうして(今、私は)紙の上に移されてきた竹を見ているのだろう

【注】
形容竹逼眞有聲之畫也(竹を形容して眞に逼る。有聲の畫なり)
   竹の姿を形容して真実にせまる。詩と絵が一体になっている絵画である。

[]杜詩雲飛玉立盡清秋①王荊公詩風枝雨葉瘠土竹②(杜が詩に雲飛びて玉立盡く清秋、王荊公詩に風枝雨葉瘠土の竹あり)
  杜甫の詩に『雲飛びて玉立盡く清秋』。王荊公の詩に『風枝雨葉瘠土の竹』とある。
  
①全唐詩に「見王監兵馬使説近山有白二鷹羅者久取竟未能得王以為毛骨有異他鷹恐臘後春生鶱飛避暖翮思秋之甚眇不可見請余賦」という杜甫の詩があり、「雪飛玉立盡清秋,不惜奇毛恣遠遊。在野只教心力破,于人何事網羅求。一生自獵知無敵,百中爭能恥下韝。鵬礙九天須卻避,兔藏三窟莫深憂。」とある。

②『山谷内集詩註』巻十五の「題子瞻畫竹石」詩に「風枝雨葉瘠土竹,龍蹲虎踞蒼蘚石。東坡老人翰林翁,醉時吐出胸中墨。」とあるので、この詩は王荊公(王安石)のものではなく、黄庭堅の詩の誤りであろう。

覩物而有懷舊之意亦寓感慨(物を覩て、舊を懷ふの意有り。亦、感慨を寓す)
    物を見て昔を懐かしく思う心がある。また、感慨を寄せる(寄託する)詩である。

〈陳月觀〉
陳月觀は宋元の際の時の人なり。『鄱陽五家集』巻一、宋の黎廷瑞の『芳山洲』に「金陵陳月觀同年三首」有り。陳氏可能(おそらく)は金陵の人爲るを見る可し。黎廷瑞(1250~1308)字は祥仲は、鄱陽(現在の江西省波陽)の人なり。度宗の咸淳七年(1271)、同じく進士出身を賜ふ。陳氏之と同年なれば則ち亦た咸淳七年の進士なり。宋の亡びし後、陳氏可能(おそらく)は北方に漫遊せり。汪夢斗の『北遊集』巻上の「山陽寄陳月觀」に云ふ。「幽州此去三千里,行客當歸六月期」と。又た王奕の玉斗山人集巻二に「見陳月觀二首」の二に云ふ有り。「燕臺接武何多隗陀,呉國孤騫未見雲」と。又た多年未だ江南に回らず(幾年不踏江南路)。之と交遊する者は黎廷瑞・王奕・汪夢斗等の人有り。


参考文献
・唐宋千家聯珠詩格考證 卞東波考證 鳳凰出版社 2007年
・杜詩集註 仇兆鰲注 中華書局 1979年
・黄庭堅集注 劉尚榮校點 中華書局 2003年

↓原文ナリ
増注聯珠詩格・墨竹

○→平声
●→仄声
◎→押韻


「なるほど。人サマの描いた絵を誉める時はこのように誉めるのか!」という詩であろう。
詩の趣旨は「竹の絵を見ているが、昔見た人家に植えられていた竹そっくりだ。何と上手なことだろう!」といったところ。



蛇足
漢詩を書くときは、原文と書き下し文を少し大きなフォントで設定しているのですが、InternetExplorer(IE6だけ?)では少々見にくくなってしまうようです。Firefoxでの動作確認をしているので、こちらをオススメします(IEより軽いしねw)

嗚呼懐かしの寺好き…

震災でおちゃらけたことやばかばかしいこと、ユーモアは不謹慎だという扱いを受ける今日この頃ですが、震災中で重苦しい雰囲気がただよっているからこそ、明るい、ばかばかしい話題のほしい昨今であります(マッタク、窒息シチャウヨ…)

サテ、今は無き(といってもBlog=共和制に移行したという見方も…)寺好きサイトの一部の人々にとっては懐かしきFlashをニコニコ動画で見つけましたので御覧下さい。

伍長閣下大いに語る ‐ ニコニコ動画(原宿)


宣伝相の悩み ‐ ニコニコ動画(原宿)


残念ながら「万歳ヒットラー・ユーゲント 」は見あたらなかったのですが、同じ歌のものがありましたので、そちらを御覧下さい。
<軍歌>万歳ヒットラー・ユーゲント(独逸青少年団歓迎の歌) ‐ ニコニコ動画(原宿)

万歳ヒットラー・ユーゲント - YouTube

今は動画といえばYoutubeなどの投稿サイトとなってしまっていますが、古き良き時代(?)はFlashだったのですよね。
栄枯盛衰の儚さ哉   .
しかしよく保存した人がいたものだなぁ。。。

その他にもブックマークの整理中に見つけたFlashをUpしますので、Flash全盛期のことを懐かしみつつ御覧下さい。
当然のことではありますが、リンクを張った側から削除されている可能性もありますので、その時にはGoogle先生に聞いてみて下さいm(_ _)m
尚、これも当然のことながら、これらのFlashはMyrthaの思想・主義とは一切関係ありませんのでその点、よろしくです。

日本・トルコ友好秘話 | エルトゥールル号遭難

大和心とポーランド魂YouTube版

ロシア動乱

日露戦争

大日本帝国の最期 第壱幕

大日本帝国の最期 第弐幕

大日本帝国の最期 第参幕

朝鮮戦争前編ver1

朝鮮戦争後編ver2

アサピーフラッシュ倉庫

ウリナラマンセーの歌
補足という名の参考ウリナラマンセー

もすかう(その2)

冬ソナ(日本語訳)

Oliver Kahn

資料室:世界の文化・歴史に関するレポート

母さんが死んだ

それでも生きていこう

金太の大冒険

ピエールとカトリーヌ


追記;
ヒトラーユーゲントのFlashも発見しましたので、併せて御覧下さい。
なんか違う ‐ ニコニコ動画(原宿)

震災から10日経ちまして…

東北地方太平洋沖地震から10日が経ちましたが、相変わらず被災地では悲惨な生活が続いているとのことです。こういう時は募金程度しかできないのが何とももどかしいのですが、彼らに一日も早く救助の手がさしのべられますように   .

まだまだ余震が続き、予断の許されない状況ですが、Google Mapを使って一連の地震を可視化したものがありました。

JapanQuakeMap


全て見終わるには少々時間がかかりますが、このJapan Quake Mapによると、3月11日から20日現在、600を越える地震が起きていることがわかります。左側が地震の起きた場所と地震の深さを色によって変えることによってより見やすくし、右側では地震の起きた時間とマグニチュードが表示されています。

このMapをみていると打ち上げ花火のフィナーレ状態の地震の連続で、東日本が大爆撃を受けているようにも見え、よく東日本の陸地がなくならないものだと思ってしまうほどです。
そして対照的なのが西日本の静けさ…
経済や明るい話題は西日本にまかせるより他なさそうだなぁ。。。

Japan Quake Mapを見てみる

つづいて首都圏を中心とする物資の買い占め状態にはこの方がお怒りのようです。

買い占めするならカネ送れ ‐ ニコニコ動画(原宿)


うーん。。。
総統閣下はいつになく正論を述べておられるぞw
首都圏では、一部の人が物資を買い占める→買い占める気のない人も不安になって買い占め→物流が滞る→物資の欠乏→買い占める人が出る、の悪循環が続いている状態です。彼ら、オイルショックの時から何も学んでいないようだなぁ(-_-;)
物資の不足についてはみんなで分け合えば、できること。という画像も出回っていたりします。こんな時だからこそ、首都圏在住者としてはゆとりを持って、分け合っていきたいものです。

そして、ネットでは大船渡市で救助されたおじいさんのひとことが「はげまされた」といって話題になっています。

東日本大震災70代のおじいちゃん「また再建しましょう」- YouTube


何と朗らかで力強いひと言でしょう!
関係者の方々、違法なのは重々承知ですが、こういった動画は削除しないで下さい(-人-)

日本に帰化したラモス瑠偉さんも励ましの声を送っています。


大変なときだからこそ、みんなで少しずつ協力し合って乗り切りたいものです。
今回はチョット「クサい」文章になってしまったかな?
Myrthaもイロイロ動揺しているということでご勘弁をm(_ _)m


---その他記事は下記のサイトからどうぞ(順不同です)---

Dairy Mail Onlineの撮影した写真はこちら
Japan earthquake and tsunami: The moment mother nature engulfed a nation[魚拓]

こちらはアメリカのABC Newsの大きな津波の被害を受けた被災地の地震前と地震後の衛星画像です。画像を左右にスライドさせるとその被害の凄まじさがよくわかります。
Japan Earthquake: before and after

米軍の活躍を撮影した写真はこちらから。アメリカはどうしてこう見せ方が上手なのでしょうか?
Operation Tomodachi - a set on Flickr

計画停電の地域を可視化した地図はこちらから
東日本巨大地震 - 計画停電マップ

お見舞いのあった国、地域、団体の一覧はこちらから
お見舞いの表明のあった国,地域,国際機関一覧[魚拓]

最後に、義援金の寄付を考えている方はこちらのサイトを参考にしてみるのもよいかも知れません
募金情報まとめ - 平成23年東北地方太平洋沖地震
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